ICBM・.巨大戦艦大和 、どこか似ている!北朝鮮と大日本帝国 知床のヒグマ [戦争]
北朝鮮に対して石油禁輸処置が報じられた時、ひらめいた。真珠湾奇襲攻撃!
大日本帝国も上海・南京と侵略していった結果、石油禁輸処置を受け、勝てないと分かっているアメリカに戦争を挑んだ。真珠湾奇襲攻撃。
欧米列強と肩を並べようとして、資源劣国が巨大戦艦武蔵・大和などを建造。軍事大国、大日本帝国を演出。
国民には清貧を強いながら、ミッドウェーやインパール作戦で大敗をした事実を隠蔽し、大勝利報告で国民を欺いた。まさに北朝鮮とどこも違わない。
北朝鮮が大日本帝国の轍を踏むとは思わないが、帝国日本の様な過ちはしてほしくない。
原爆に手を出し、水爆そして炭疽菌へと手を染めてゆく北朝鮮。
自虐思想に酔いしれるのは良くないと思う。
拷問、強迫、自白強要による記憶の書き換えそして冤罪が生まれる。呼吸器事件再審決定!大阪高裁
昭和天皇の独白録を落札
昭和天皇が一九四六年春に張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件から終戦に至るまでの経緯を側近に語った昭和史の第一級資料。
側近の故寺崎英成氏が鉛筆などで記録した百七十三ページ。九〇年代に日本で出版され、大きな反響を呼んだ。
昭和天皇は独白録で、太平洋戦争の開戦の決定を拒否すれば日本国内は大混乱になり、日本は滅びたであろうと回想している。
天皇の目は国民の惨状に向けられていない、敗戦で皇国日本は既に滅びているという認識に欠けている。 生き残った天皇が日本そのものと思い違いをしているようだ。 恥を知るべき。 民なくして国家なし。朝鮮王朝ドラマではよく耳にする。
落札者は美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長。
朝日新聞の取材に「お金に換えられない日本の心。
秋篠宮家の悠仁さまがご覧になれる場所に差し上げたいと言及.
この回想録のどこが日本の心? 馬鹿と言うしかない!!!
大日本帝国も上海・南京と侵略していった結果、石油禁輸処置を受け、勝てないと分かっているアメリカに戦争を挑んだ。真珠湾奇襲攻撃。
欧米列強と肩を並べようとして、資源劣国が巨大戦艦武蔵・大和などを建造。軍事大国、大日本帝国を演出。
国民には清貧を強いながら、ミッドウェーやインパール作戦で大敗をした事実を隠蔽し、大勝利報告で国民を欺いた。まさに北朝鮮とどこも違わない。
北朝鮮が大日本帝国の轍を踏むとは思わないが、帝国日本の様な過ちはしてほしくない。
原爆に手を出し、水爆そして炭疽菌へと手を染めてゆく北朝鮮。
自虐思想に酔いしれるのは良くないと思う。
拷問、強迫、自白強要による記憶の書き換えそして冤罪が生まれる。呼吸器事件再審決定!大阪高裁
昭和天皇の独白録を落札
昭和天皇が一九四六年春に張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件から終戦に至るまでの経緯を側近に語った昭和史の第一級資料。
側近の故寺崎英成氏が鉛筆などで記録した百七十三ページ。九〇年代に日本で出版され、大きな反響を呼んだ。
昭和天皇は独白録で、太平洋戦争の開戦の決定を拒否すれば日本国内は大混乱になり、日本は滅びたであろうと回想している。
天皇の目は国民の惨状に向けられていない、敗戦で皇国日本は既に滅びているという認識に欠けている。 生き残った天皇が日本そのものと思い違いをしているようだ。 恥を知るべき。 民なくして国家なし。朝鮮王朝ドラマではよく耳にする。
落札者は美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長。
朝日新聞の取材に「お金に換えられない日本の心。
秋篠宮家の悠仁さまがご覧になれる場所に差し上げたいと言及.
この回想録のどこが日本の心? 馬鹿と言うしかない!!!
山本五十六と真珠湾攻撃のからくり 知床のヒグマ [戦争]
1923年関東大震災の年、アメリカ陸軍の航空隊副長官のウイリアム・ビリー・ミッチェルは日米開戦時のターゲットは真珠湾であると報告し,1924年には「翼による国防」を発表した。
全ての艦船は航空機により爆沈させることができるということを実験で証明したのである。
1925年イギリスの海軍研究家、バイウォーターが「大いなる太平洋戦争」を出版。
当時アメリカ海軍次官を終えたばかりのフランクリン・ルーズベルトと論戦になった。
ルーズベルトは太平洋が日米開戦を不可能にしていると考えていた。それに対してバイウオーターは日本がフイリッピンやグアムのアメリカ軍に奇襲をかけ、太平洋の島々を基地化すると想定。アメリカ軍は、マーシャル諸島からカロリン諸島を次々と進軍し勝利するという「未来戦争」を考えていた。
山本五十六の真珠湾攻撃はミッチェルとバイウォーターの考えに基づいていたのである。
「大いなる太平洋戦争」は海軍大学校のテキストにも使用された。この小説では日本は初戦には勝利するが、次第に物資に勝るアメリカが勝利する。
駐米大使館付海軍武官であった山本五十六はこの時以来、軍人として真珠湾攻撃を行うことを夢見ていた。1928年山本五十六は水雷学校でハワイ攻撃について講話した。
五十六は世界で最初に航空機の威力を実験ではなく実戦で証明したかったのであろう。
しかし、ミッチェルの考えと、山本の真珠湾攻撃とは決定的な違いがあった。山本はアメリカを恐れ、真珠湾を単に奇襲攻撃するのみ。しかし、ミッチェルはハワイ周辺の島のひとつ、ニイハウ島を占領し、そこから航空機でオアフ島の真珠湾を空襲する方法であった。
山本はハワイ占領は不可能と考えていた。
山本が真珠湾攻撃の過ちを認め、ハワイ占領を考えたのは、ミッドウェー作戦時であった。
山本五十六はバイウォーターの「大いなる太平洋戦争」を思い出していたであろう。
太平洋戦争直前には情勢は大きく変わっていた。当時、日米開戦に否定的であった海軍次官のルーズベルトは、大統領となってからは日米開戦を危惧し、ミッチェルの「視察報告書」とバイウォーターの「大いなる太平洋戦争」をもとに戦略を構築した。
ルーズベルトは、日本がアメリカ軍の手薄な島を基地化することを最も恐れた。真珠湾のあるオアフ島が日本に占領される事を恐れたのである。
山本五十六はハワイ諸島を占領する考えはなかった。航空機、艦船の破壊のみを考えていた。ハワイの軍事施設、燃料基地を破壊する考えはなかった。
日本海軍には兵站を無視し、艦隊決戦を主と考える伝統があった。山本五十六は、真珠湾を奇襲攻撃することにより、戦術的優位に立つ事を考えていたのであろう。
「海軍を退いて郷里の長岡に帰るか、モナコでばくち打ちにでもなるか。」(五十六)
「日本は太平洋で戦争を引き起こす。はじめに晴れた日曜日の朝にハワイを叩くことでアメリカを攻撃する」と語った。(1925年ーミッチェル) ー 山本五十六と未来戦記からー
全ての艦船は航空機により爆沈させることができるということを実験で証明したのである。
1925年イギリスの海軍研究家、バイウォーターが「大いなる太平洋戦争」を出版。
当時アメリカ海軍次官を終えたばかりのフランクリン・ルーズベルトと論戦になった。
ルーズベルトは太平洋が日米開戦を不可能にしていると考えていた。それに対してバイウオーターは日本がフイリッピンやグアムのアメリカ軍に奇襲をかけ、太平洋の島々を基地化すると想定。アメリカ軍は、マーシャル諸島からカロリン諸島を次々と進軍し勝利するという「未来戦争」を考えていた。
山本五十六の真珠湾攻撃はミッチェルとバイウォーターの考えに基づいていたのである。
「大いなる太平洋戦争」は海軍大学校のテキストにも使用された。この小説では日本は初戦には勝利するが、次第に物資に勝るアメリカが勝利する。
駐米大使館付海軍武官であった山本五十六はこの時以来、軍人として真珠湾攻撃を行うことを夢見ていた。1928年山本五十六は水雷学校でハワイ攻撃について講話した。
五十六は世界で最初に航空機の威力を実験ではなく実戦で証明したかったのであろう。
しかし、ミッチェルの考えと、山本の真珠湾攻撃とは決定的な違いがあった。山本はアメリカを恐れ、真珠湾を単に奇襲攻撃するのみ。しかし、ミッチェルはハワイ周辺の島のひとつ、ニイハウ島を占領し、そこから航空機でオアフ島の真珠湾を空襲する方法であった。
山本はハワイ占領は不可能と考えていた。
山本が真珠湾攻撃の過ちを認め、ハワイ占領を考えたのは、ミッドウェー作戦時であった。
山本五十六はバイウォーターの「大いなる太平洋戦争」を思い出していたであろう。
太平洋戦争直前には情勢は大きく変わっていた。当時、日米開戦に否定的であった海軍次官のルーズベルトは、大統領となってからは日米開戦を危惧し、ミッチェルの「視察報告書」とバイウォーターの「大いなる太平洋戦争」をもとに戦略を構築した。
ルーズベルトは、日本がアメリカ軍の手薄な島を基地化することを最も恐れた。真珠湾のあるオアフ島が日本に占領される事を恐れたのである。
山本五十六はハワイ諸島を占領する考えはなかった。航空機、艦船の破壊のみを考えていた。ハワイの軍事施設、燃料基地を破壊する考えはなかった。
日本海軍には兵站を無視し、艦隊決戦を主と考える伝統があった。山本五十六は、真珠湾を奇襲攻撃することにより、戦術的優位に立つ事を考えていたのであろう。
「海軍を退いて郷里の長岡に帰るか、モナコでばくち打ちにでもなるか。」(五十六)
「日本は太平洋で戦争を引き起こす。はじめに晴れた日曜日の朝にハワイを叩くことでアメリカを攻撃する」と語った。(1925年ーミッチェル) ー 山本五十六と未来戦記からー
フランケンシュタインの誘惑 森鴎外と脚気 サンコウチョウ [戦争]
森鴎外は医者、科学者失格。異常なエリート意識の塊。…驚いた・・・安倍首相と変わらない
「阿部一族」とは???? 海軍を蔑視、対立する森林太郎。
明治、脚気は、コレラ、結核と並ぶ深刻な病気でした。
ヨーロッパにはない病気であることから、アジアの風土病、アジアの自然界にある細菌が原因だと考える研究者は多かった。
1876年(明治9年)、ドイツのロベルト・コッホが炭疽菌を発見。細菌がさまざまな病気の原因になるということが解り始めていた。
東大医学部はドイツ医学を導入。森鴎外や石黒忠悳(陸軍省医務局長)は東大医学部で学び、ドイツに留学。細菌説をとっていた。
当時の明治政府は、薩長という2大藩閥に支配され、陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥。
森林太郎(鴎外)は長州藩の隣国、津和野藩の出身。いっぽう、高木は薩摩藩支配の日向国諸県郡の出身。
明治初期に、日本は西洋医学を導入する。
薩摩藩は、幕末からイギリスとの関係が深く、ウィリアム・ウィリスというイギリス人医師とすでに契約も済ませていた。海軍軍医の高木兼寛はイギリスで医学を学ぶ。
この決定に反対したのが佐賀藩出身の蘭学者・相良知庵。
相良は細菌学によって急進しつつあったドイツ医学こそ世界の最先端であると熱烈に説いて、イギリス医学導入という政府決定を覆した。
高木はヨーロッパに脚気がないことから、脚気の原因を蛋白質の不足と考え、肉食すれば脚気を防げるのではないかと推測。
明治17年(1884)、訓練航海のときに2隻の船の食事内容をそれぞれ和食と洋食にした。すると、和食のほうには脚気が発生し、洋食のほうには発生しなかった。
以後、海軍では洋食をとりいれ、やがて肉より麦飯がよいことも判明して、その後は脚気に悩まされることがほとんどなくなった。日清戦争の前のことです。
しかし、細菌説に固執する石黒や森鴎外は、海軍が兵食改革によって脚気が激減した結果を無視、「日本男児は白米を食べないと力がでない」などといって陸軍の兵食はあくまでも白米とした。
陸軍は日清戦争で3944人(戦死者は293人)日露戦争で27800人(戦死者は47000人、脚気患者もいた)の兵士を脚気で死なせることになった。
「エリートの経歴と名誉が傷つくことを恐れた森鴎外と東大医学部」
海軍ではほぼ撲滅された脚気が、陸軍では日露戦争時にいたっても改善されなかった。
森鴎外が麦飯導入を拒み、日露戦争でも陸軍では約25万人の脚気患者が発生、約2万7千人が死亡するという無残な事態を生み出し、戦死者の多くも脚気にかかっていた。
戦中戦後、鴎外を非難する声は陸軍内部にもあったが、鴎外が責任を取ることはなかった。
1910年12月13日
鈴木梅太郎が米糠からオリザニン(ビタミンB1)を発見したのちも、鴎外は一貫して細菌説に固執。
その筆力をもって栄養説を批判し、鈴木を罵倒する論文をたびたび発表した。
鈴木が東大農学部出身であることから「百姓学者のマユツバ研究」と揶揄し、「農学者が何を言うか、糠が効くのなら小便でも効くだろう」とまでいった。
鈴木の発見はノーベル賞に値するものでしたが、森鴎外や 東大医学部からの激しい嫉妬によってノーベル委員会に推薦されることもなかった。
森鴎外は自己の過ちを、死ぬまで認めず、細菌説を主張し続けます。
鴎外は陸軍軍医総監、かつ陸軍省医務局長という地位に上り詰めます。陸軍軍医総監は中将に相当するポジション。 (…から引用…)
・・安倍政権を彷彿とさせる明治支配層の実態・・驚きましたね・・・
「阿部一族」とは???? 海軍を蔑視、対立する森林太郎。
明治、脚気は、コレラ、結核と並ぶ深刻な病気でした。
ヨーロッパにはない病気であることから、アジアの風土病、アジアの自然界にある細菌が原因だと考える研究者は多かった。
1876年(明治9年)、ドイツのロベルト・コッホが炭疽菌を発見。細菌がさまざまな病気の原因になるということが解り始めていた。
東大医学部はドイツ医学を導入。森鴎外や石黒忠悳(陸軍省医務局長)は東大医学部で学び、ドイツに留学。細菌説をとっていた。
当時の明治政府は、薩長という2大藩閥に支配され、陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥。
森林太郎(鴎外)は長州藩の隣国、津和野藩の出身。いっぽう、高木は薩摩藩支配の日向国諸県郡の出身。
明治初期に、日本は西洋医学を導入する。
薩摩藩は、幕末からイギリスとの関係が深く、ウィリアム・ウィリスというイギリス人医師とすでに契約も済ませていた。海軍軍医の高木兼寛はイギリスで医学を学ぶ。
この決定に反対したのが佐賀藩出身の蘭学者・相良知庵。
相良は細菌学によって急進しつつあったドイツ医学こそ世界の最先端であると熱烈に説いて、イギリス医学導入という政府決定を覆した。
高木はヨーロッパに脚気がないことから、脚気の原因を蛋白質の不足と考え、肉食すれば脚気を防げるのではないかと推測。
明治17年(1884)、訓練航海のときに2隻の船の食事内容をそれぞれ和食と洋食にした。すると、和食のほうには脚気が発生し、洋食のほうには発生しなかった。
以後、海軍では洋食をとりいれ、やがて肉より麦飯がよいことも判明して、その後は脚気に悩まされることがほとんどなくなった。日清戦争の前のことです。
しかし、細菌説に固執する石黒や森鴎外は、海軍が兵食改革によって脚気が激減した結果を無視、「日本男児は白米を食べないと力がでない」などといって陸軍の兵食はあくまでも白米とした。
陸軍は日清戦争で3944人(戦死者は293人)日露戦争で27800人(戦死者は47000人、脚気患者もいた)の兵士を脚気で死なせることになった。
「エリートの経歴と名誉が傷つくことを恐れた森鴎外と東大医学部」
海軍ではほぼ撲滅された脚気が、陸軍では日露戦争時にいたっても改善されなかった。
森鴎外が麦飯導入を拒み、日露戦争でも陸軍では約25万人の脚気患者が発生、約2万7千人が死亡するという無残な事態を生み出し、戦死者の多くも脚気にかかっていた。
戦中戦後、鴎外を非難する声は陸軍内部にもあったが、鴎外が責任を取ることはなかった。
1910年12月13日
鈴木梅太郎が米糠からオリザニン(ビタミンB1)を発見したのちも、鴎外は一貫して細菌説に固執。
その筆力をもって栄養説を批判し、鈴木を罵倒する論文をたびたび発表した。
鈴木が東大農学部出身であることから「百姓学者のマユツバ研究」と揶揄し、「農学者が何を言うか、糠が効くのなら小便でも効くだろう」とまでいった。
鈴木の発見はノーベル賞に値するものでしたが、森鴎外や 東大医学部からの激しい嫉妬によってノーベル委員会に推薦されることもなかった。
森鴎外は自己の過ちを、死ぬまで認めず、細菌説を主張し続けます。
鴎外は陸軍軍医総監、かつ陸軍省医務局長という地位に上り詰めます。陸軍軍医総監は中将に相当するポジション。 (…から引用…)
・・安倍政権を彷彿とさせる明治支配層の実態・・驚きましたね・・・
ステルス戦闘機を配備、まるで侵略戦争の準備段階? サンコウチョウ [戦争]
航空自衛隊の次期主力戦闘機F35Aについて、空自トップの杉山良行・航空幕僚長は22日の記者会見で、1機目が10月に米ロッキード・マーチン社から納入されることを明らかにした。
1973年から配備しているF4戦闘機の後継として42機を導入する。
1機約180億円で、今年度は4機が納入される予定。
11月から、米アリゾナ州の米空軍基地で操縦訓練を実施する。残る38機は日本国内で組み立て、2017年度に納入が始まる見込み。
空自は同年度中に三沢基地(青森県)への配備を始める予定だ。(福井悠介)
単純計算で7560億円 ステルス機など配備して何を始める気? まさか侵略戦争でも始める??
正気じゃないよね?
中東の次はどこなのかな? 戦争で成長を続ける軍事産業の狙いは?
次期大統領候補のクリントン夫婦の年収 10億7千万円。
リオオリンピック金メダル500万円、銀 200万円、 銅 100万円
外務、防衛両省は22日、山口県と同県岩国市に対し、米軍が来年1月から最新鋭ステルス戦闘機F35Bを岩国基地(同市)に配備すると伝えた。
国内の米軍基地へのF35Bの配備は岩国が初めて。
岩国基地所属のFA18スーパーホーネット3部隊のうち1部隊(12機)をF35B(10機)に、同年8月にAV8ハリアー部隊(8機)をF35B(6機)に更新すると説明して理解を求めた。
F35Bを来年国内に配備することは、2013年10月の日米外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)で合意している。
F35はステルス性能や高度の電子戦能力を備えた第5世代の最新鋭戦闘機。垂直離着陸が可能な海兵隊仕様のF35Bのほか、空軍仕様のF35Aなどがある。 (朝日新聞より)
1973年から配備しているF4戦闘機の後継として42機を導入する。
1機約180億円で、今年度は4機が納入される予定。
11月から、米アリゾナ州の米空軍基地で操縦訓練を実施する。残る38機は日本国内で組み立て、2017年度に納入が始まる見込み。
空自は同年度中に三沢基地(青森県)への配備を始める予定だ。(福井悠介)
単純計算で7560億円 ステルス機など配備して何を始める気? まさか侵略戦争でも始める??
正気じゃないよね?
中東の次はどこなのかな? 戦争で成長を続ける軍事産業の狙いは?
次期大統領候補のクリントン夫婦の年収 10億7千万円。
リオオリンピック金メダル500万円、銀 200万円、 銅 100万円
外務、防衛両省は22日、山口県と同県岩国市に対し、米軍が来年1月から最新鋭ステルス戦闘機F35Bを岩国基地(同市)に配備すると伝えた。
国内の米軍基地へのF35Bの配備は岩国が初めて。
岩国基地所属のFA18スーパーホーネット3部隊のうち1部隊(12機)をF35B(10機)に、同年8月にAV8ハリアー部隊(8機)をF35B(6機)に更新すると説明して理解を求めた。
F35Bを来年国内に配備することは、2013年10月の日米外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)で合意している。
F35はステルス性能や高度の電子戦能力を備えた第5世代の最新鋭戦闘機。垂直離着陸が可能な海兵隊仕様のF35Bのほか、空軍仕様のF35Aなどがある。 (朝日新聞より)
ノモハン戦争の轍を踏んだ真珠湾奇襲。 [戦争]
アメリカは八木アンテナを改良、攻撃兵器や防御兵器に応用。15m以内の攻撃機を感知して自爆する砲弾を開発製造、砲弾には八木アンテナを改造したセンサーを使用,原爆にも搭載していた。
ハイテク兵器を開発したアメリカに思想的に劣る帝国日本。 空飛ぶ棺桶ゼロ戦、海に浮かぶホテル戦艦大和
ノモハン戦争の轍を踏んだ日米開戦真珠湾奇襲。
{・・ 第二次大戦中、大日本帝国陸軍の主力である歩兵の訓練の最重点は、射撃・銃剣術・行軍。 射撃は三八式単発歩兵銃。
日露戦争どころか、19世紀以前の軍隊、戦国時代の軍隊と基本的には変わらない。
日露戦争後、さらに第一次大戦後、大日本帝国陸軍の最高指導者と高級参謀が
取り組まなければならなかったことは、日露戦争時の白兵突撃によるおびただし
戦死者を出さないように、軍備・兵器を近代化することであったはずである。
大日本帝国陸軍の最高指導者・高級参謀の無能・無策・無責任を嘆かずにはいられない。
ノモンハン戦争
1939年6月27日、辻政信は大本営陸軍参謀本部の計画中止勧告を無視して、
重爆撃機24機、軽爆撃機6機、戦闘機77機からなる空爆隊に、
国境から130キロほども奥深く入ったモンゴルのタムサグプラグ(タムサグ・ポラグ、
タムスク)空軍基地及びマダット、サンベース空軍基地を攻撃させた。
99機を撃墜、25機を爆破し,基地の半分を破壊した。大戦果であった。
ソ連はこの爆撃によって、大日本帝国陸軍の本格出動があると判断。
この爆撃を契機に局地紛争は戦争へと拡大していった。
8月20日、ジューコフが指揮したソ連軍は、全ての戦車・装甲車のガソリン・エンジンをディーゼル・エンジンに取り替え、ハルハ河に12本の架橋を行い、
515機の航空機による爆撃、重砲による約3時間の砲撃、
戦車498両、装甲車385両、火砲・迫撃砲634門、機関銃2,255丁、
兵員5万7,000名をもって、ハルハ河東岸のモンゴル領内の大日本帝国陸軍殲滅作戦を開始した。
この作戦のために、ジューコフが準備させた弾薬等の物資は、砲兵弾薬
1万8000トン(野砲弾薬換算約280万発)、空軍弾薬6500トン、
各種燃料1万5000トン、各種糧食4000トン、燃料7500トン、その他の資材
1000トンで、合計5万2000トンであった。
(牛島康允(うしじまやすちか)著『ノモンハン全戦史』自然と科学社発行・
星雲社1988年4月発売 第297頁~第299頁)
これらの大量の戦闘物資の輸送は大日本帝国陸軍に気づかれぬように、
細心の注意を払って行われた。
辻政信ら関東軍高級参謀や、関東軍司令官、第六軍司令官、
第23師団長などの関東軍の最高指導者は、ソ連軍のこの大がかりな戦闘準備を夢想だにしていなかった。
銃剣による白兵突撃と火炎瓶による肉弾攻撃。
日本軍は兵員こそ2万数千人であったが、それまでの戦闘で戦車の大半を失い、
残った戦車も皆引き揚げており、大日本帝国陸軍戦車は皆無であった。火砲はわずか100門。
火炎瓶を手に、肉弾攻撃で反撃したが、ディーゼル・エンジンの
戦車・装甲車には全く効果なく、圧倒的に優勢なソ連軍の火力攻撃に
大日本帝国陸軍は壊滅し、敗走し、モンゴルが主張する国境線の外へ完全に追い払われた。
辻政信が主導し、おびただしい犠牲を出したノモンハン戦争は、大敗北に終わった。
しかし卑劣にも、辻政信と関東軍の最高指導者は、敗北した責任を、
全て前線の指揮官たちになすりつけた。
生き残った前線指揮官に自殺を強要し、
停戦後、捕虜交換によって戻ってきた将校全員にも自殺を強要した。
実質的な死刑である。
関東軍の最高指導者は、勇敢に戦った前線指揮官と、激しい戦闘中に
負傷し昏睡状況で捕虜になった将校を、処刑したのである。
関東軍の最高指導者たちは、敗北の事実を隠ぺいし、【擅権(せんけん)の罪)】を免れた。
1931年の満州事変の後、大日本帝国は、満州国を建国し、国際連盟を脱退し、国際的に孤立していた。
大日本帝国陸軍によるノモンハン戦争の大敗北の事実隠蔽は、その後の大日本帝国政府の
判断を誤らせ、太平洋戦争の惨禍に繋がった。
わずか3か月の短い期間に、ソ連の戦車と航空機は機動性能を向上させた。
開戦当初、大日本帝国陸軍の火炎瓶攻撃で簡単に炎上した戦車はすべてディーゼル・
エンジンに変えられた。旋回飛行能力が劣っていた航空機も機動性能を向上させていた。
シベリア鉄道から数百キロ離れたノモンハンに5万2000トンもの戦闘物資を
送り込むということは、辻政信や、植田謙吉関東軍司令官らには想像もできないことであった。
このソ連の驚くべき輸送能力は、1945年8月の日ソ戦争(ソ連の対日参戦)時に
おいてもいかんなく発揮された。
これに反して、大日本帝国陸軍は、占領地の住民の食糧を強奪して自給自足するということを本気で考えていた。
南方では現地住民に大量の餓死者が出た。数百万とも云われる。
ガダルカナル、北ボルネオ、インパールの惨劇に具体的に見られるように
食糧を補給するという最低限の常識すら欠如していた。
官公庁、自衛隊、地方自治体等の公的組織において、大日本帝国陸軍のような、
事実隠ぺいを犯罪と思わず、不正不義が公然とまかり通る組織風土の存在を
許してはならない。
日本の中央、地方の官公庁のは事実隠ぺいは根深い。都合が悪くなれば、公文書さえ
廃棄してしまう。毎日新聞(朝刊)10年2月26日第1面は『省庁「密約」今も』との
大きな見出しで中央官庁間の密約の横行を報じたが、その中で、
「公開されると困る書類は廃棄した」との某省幹部の証言を報じている。・・}
(ノモハン戦争から学ぶべきことより)
ハイテク兵器を開発したアメリカに思想的に劣る帝国日本。 空飛ぶ棺桶ゼロ戦、海に浮かぶホテル戦艦大和
ノモハン戦争の轍を踏んだ日米開戦真珠湾奇襲。
{・・ 第二次大戦中、大日本帝国陸軍の主力である歩兵の訓練の最重点は、射撃・銃剣術・行軍。 射撃は三八式単発歩兵銃。
日露戦争どころか、19世紀以前の軍隊、戦国時代の軍隊と基本的には変わらない。
日露戦争後、さらに第一次大戦後、大日本帝国陸軍の最高指導者と高級参謀が
取り組まなければならなかったことは、日露戦争時の白兵突撃によるおびただし
戦死者を出さないように、軍備・兵器を近代化することであったはずである。
大日本帝国陸軍の最高指導者・高級参謀の無能・無策・無責任を嘆かずにはいられない。
ノモンハン戦争
1939年6月27日、辻政信は大本営陸軍参謀本部の計画中止勧告を無視して、
重爆撃機24機、軽爆撃機6機、戦闘機77機からなる空爆隊に、
国境から130キロほども奥深く入ったモンゴルのタムサグプラグ(タムサグ・ポラグ、
タムスク)空軍基地及びマダット、サンベース空軍基地を攻撃させた。
99機を撃墜、25機を爆破し,基地の半分を破壊した。大戦果であった。
ソ連はこの爆撃によって、大日本帝国陸軍の本格出動があると判断。
この爆撃を契機に局地紛争は戦争へと拡大していった。
8月20日、ジューコフが指揮したソ連軍は、全ての戦車・装甲車のガソリン・エンジンをディーゼル・エンジンに取り替え、ハルハ河に12本の架橋を行い、
515機の航空機による爆撃、重砲による約3時間の砲撃、
戦車498両、装甲車385両、火砲・迫撃砲634門、機関銃2,255丁、
兵員5万7,000名をもって、ハルハ河東岸のモンゴル領内の大日本帝国陸軍殲滅作戦を開始した。
この作戦のために、ジューコフが準備させた弾薬等の物資は、砲兵弾薬
1万8000トン(野砲弾薬換算約280万発)、空軍弾薬6500トン、
各種燃料1万5000トン、各種糧食4000トン、燃料7500トン、その他の資材
1000トンで、合計5万2000トンであった。
(牛島康允(うしじまやすちか)著『ノモンハン全戦史』自然と科学社発行・
星雲社1988年4月発売 第297頁~第299頁)
これらの大量の戦闘物資の輸送は大日本帝国陸軍に気づかれぬように、
細心の注意を払って行われた。
辻政信ら関東軍高級参謀や、関東軍司令官、第六軍司令官、
第23師団長などの関東軍の最高指導者は、ソ連軍のこの大がかりな戦闘準備を夢想だにしていなかった。
銃剣による白兵突撃と火炎瓶による肉弾攻撃。
日本軍は兵員こそ2万数千人であったが、それまでの戦闘で戦車の大半を失い、
残った戦車も皆引き揚げており、大日本帝国陸軍戦車は皆無であった。火砲はわずか100門。
火炎瓶を手に、肉弾攻撃で反撃したが、ディーゼル・エンジンの
戦車・装甲車には全く効果なく、圧倒的に優勢なソ連軍の火力攻撃に
大日本帝国陸軍は壊滅し、敗走し、モンゴルが主張する国境線の外へ完全に追い払われた。
辻政信が主導し、おびただしい犠牲を出したノモンハン戦争は、大敗北に終わった。
しかし卑劣にも、辻政信と関東軍の最高指導者は、敗北した責任を、
全て前線の指揮官たちになすりつけた。
生き残った前線指揮官に自殺を強要し、
停戦後、捕虜交換によって戻ってきた将校全員にも自殺を強要した。
実質的な死刑である。
関東軍の最高指導者は、勇敢に戦った前線指揮官と、激しい戦闘中に
負傷し昏睡状況で捕虜になった将校を、処刑したのである。
関東軍の最高指導者たちは、敗北の事実を隠ぺいし、【擅権(せんけん)の罪)】を免れた。
1931年の満州事変の後、大日本帝国は、満州国を建国し、国際連盟を脱退し、国際的に孤立していた。
大日本帝国陸軍によるノモンハン戦争の大敗北の事実隠蔽は、その後の大日本帝国政府の
判断を誤らせ、太平洋戦争の惨禍に繋がった。
わずか3か月の短い期間に、ソ連の戦車と航空機は機動性能を向上させた。
開戦当初、大日本帝国陸軍の火炎瓶攻撃で簡単に炎上した戦車はすべてディーゼル・
エンジンに変えられた。旋回飛行能力が劣っていた航空機も機動性能を向上させていた。
シベリア鉄道から数百キロ離れたノモンハンに5万2000トンもの戦闘物資を
送り込むということは、辻政信や、植田謙吉関東軍司令官らには想像もできないことであった。
このソ連の驚くべき輸送能力は、1945年8月の日ソ戦争(ソ連の対日参戦)時に
おいてもいかんなく発揮された。
これに反して、大日本帝国陸軍は、占領地の住民の食糧を強奪して自給自足するということを本気で考えていた。
南方では現地住民に大量の餓死者が出た。数百万とも云われる。
ガダルカナル、北ボルネオ、インパールの惨劇に具体的に見られるように
食糧を補給するという最低限の常識すら欠如していた。
官公庁、自衛隊、地方自治体等の公的組織において、大日本帝国陸軍のような、
事実隠ぺいを犯罪と思わず、不正不義が公然とまかり通る組織風土の存在を
許してはならない。
日本の中央、地方の官公庁のは事実隠ぺいは根深い。都合が悪くなれば、公文書さえ
廃棄してしまう。毎日新聞(朝刊)10年2月26日第1面は『省庁「密約」今も』との
大きな見出しで中央官庁間の密約の横行を報じたが、その中で、
「公開されると困る書類は廃棄した」との某省幹部の証言を報じている。・・}
(ノモハン戦争から学ぶべきことより)
昭和天皇とキリスト教改宗 [戦争]
新年を迎えおめでとう
「昭和天皇実録」を読み解くなかで、昭和史の断面、昭和天皇の素顔が浮かび上がってきた。
政治学者の原武史・明治学院大学教授(52)は母、貞明皇后との微妙な親子関係に注目し、昭和天皇のカトリックへの傾倒とその狙いを分析。
* * *
「昭和天皇実録」で私が注目したのは御告文(おつげぶみ)です。これは天皇が神に自分の思いを告げるための文。それが今回、いくつか公表されたことに驚きました。
たとえば太平洋戦争開戦直後、1941(昭和16)年12月9日の祭祀(さいし)の際の御告文。「海に陸に空に射向ふ敵等を速に伐平らげ皇御国(すめらみくに)の大御稜威(おほみいつ)を四表八方に伊照り徹らしめ給ひて」とある。
これが1894(明治27)年に日清戦争を開戦した際の明治天皇の御告文とそっくり。「明治天皇紀」によると、日清戦争の時は「海路陸路に射向ふ冦等を速に伐平らげ食国の大御稜威を天下に照輝かし」と言っている。明らかに昭和天皇は、日清戦争の御告文を下敷きにしている。
もっとびっくりしたのは日本が降伏する直前の1945(昭和20)年7月30日から8月2日にかけて、宇佐神宮(大分県)と香椎宮(福岡県)、氷川神社(埼玉県)に勅使を送ったことです。宇佐と香椎へ使いを送る「勅使参向」は10年に1回の恒例行事。氷川神社は例祭。そこで「敵国撃破」を祈らせた御祭文が実録に記されている。
香椎宮の主祭神は神功皇后で、宇佐神宮は応神天皇。神功皇后は、応神天皇を身ごもりながら三韓征伐に行ったという逸話が「日本書紀」などに書かれている伝説の皇后です。
10日あまり後に日本は降伏する。天皇は戦争終結の気持ちをほぼ固めていたであろうこの時期に、なぜ強い調子で敵国撃破を祈らせたか。しかも、なぜ伊勢神宮ではなく、香椎宮と宇佐神宮だったのか。
貞明皇后は神功皇后に対する思い入れが強く、22(大正11)年には自ら香椎宮を参拝して、神功皇后の霊との一体化を願う和歌まで詠んでいます。神功皇后の三韓征伐を史実と信じた貞明皇后は、45年になっても戦勝を祈り続けていました。昭和天皇が香椎宮と宇佐神宮に勅使を送ったのは、母親向けのポーズだったのではないか。
昭和天皇はヨーロッパから帰国して間もない21年11月に20歳で摂政になります。
翌22年の11月23日、皇太子は新嘗祭に出ていない。陸軍特別大演習の統監と地方視察のため四国にいたからです。当日は迎賓館として建てられた松山市の久松家別邸、現在の萬翠荘で終日、謹慎することになっていた。ところが今回の実録で、皇太子はビリヤードと将棋をしていたことが明らかになった。
謹慎すべき日に遊んでいたことが貞明皇后にも伝わり、宮中に激震が走ったんじゃないかと私は推測しています。
摂政になる直前の21年、皇太子は半年かけて欧州各国を訪問しました。この訪欧で私が興味をひかれたのは、最後にイタリアに行きローマ法王ベネディクト15世に会ったことです。
法王はカトリック教会の逸話を紹介し、日本が教会と提携するよう皇太子に勧めた。朝鮮独立をめざす3.1運動が19(大正8)年に起きた際、カトリック教徒が動かなかったことに触れ、「カトリックは確立した国体・政体の変更を許さない。世界の平和維持・秩序保持のため過激思想に対し奮闘しつつある最大の有力団体」と述べ日本がカトリック国になっても、天皇制は微動だにしない、と説いた。
訪欧最後のこの体験が、若き昭和天皇に強い印象を与えた。対米開戦直前の41年11月2日、天皇はローマ法王を通じた時局収拾の検討を東条英機首相に提案しています。開戦直前から、バチカンを通じての戦争終結の手段を考えろと言っていたわけです。
敗戦後の占領期、天皇はキリスト教、とくにカトリックに接近しました。キリスト教徒に頻繁に会い、牧師の植村環(たまき)からは香淳皇后とともに聖書の進講を受けています。植村が訪米する前後にも会い、トルーマン米大統領への伝言を伝えている。
皇后は戦前からキリスト教徒と親しかった。開戦後の42(昭和17)年から44(同19)年にかけて、皇后はキリスト教徒の野口幽香(ゆか)を宮中に招き入れて定期的に聖書の講義を受けています。天皇はこれを黙認。
天皇は外国人とも会っています。聖心愛子会というカトリック団体の聖園(みその)テレジアというドイツ生まれの修道女。慈生会のフロジャックというフランス人神父。48(昭和23)年1月23日の実録によると、天皇はフロジャックが日本のカトリックの現状を報告するためローマ法王庁を訪れる前後に会っている。6月9日にはローマ法王庁から来日したスペルマン枢機卿らの一行とも会いました。
終戦直前に敵国撃破を祈ったのが九州の宇佐と香椎だった。しかしその1週間後、長崎に2発目の原爆が投下された。
天皇がカトリックに接近した理由は、やはり21年の訪欧の経験が効いている。
敵国撃破を祈ってしまった神道に対する反省があったことや、共産党が合法化されて左翼活動が盛んになり、革命の恐怖があったことも挙げられるでしょう。しかし最大の理由は、GHQ(連合国軍総司令部)やマッカーサーに従い、皇太子の英語教師としてクエーカー教徒のヴァイニング夫人を呼ぶなど米国経由のキリスト教を取り入れる一方で、米国に対抗できる別のチャンネルも確保しておきたいという思惑があったからではないでしょうか。
天皇は、退位すべきかどうか悩んでいたはずです。内大臣だった木戸幸一による「木戸幸一日記」には、45年8月29日に「戦争責任者を聯合(れんごう)国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだらうか」ともらす天皇の姿が描かれています。
一方、実録では、同じ場面が「御下問になる」と表現されており、ニュアンスが異なっています。実録の68(昭和43)年4月24日には、天皇が占領期を回想して稲田周一侍従長に「退位の意思はなかった」と言ったと記され、実録全体が天皇は一度も退位の意思を示さなかったという前提で編集されているのです。
昭和天皇は、日本統治のため天皇の存在は有用だと考えたマッカーサーにより、退位の道を封じられた。では、それ以外のどんな方法で戦争責任を取れるのか。昭和天皇が占領期にカトリックに接近したのは、退位しない代わりにカトリックに改宗する道を探り、戦争責任と米国からの相対的自立という二つの課題にこたえようとしたからではないでしょうか。
しかし、東京裁判の判決を受け入れる代わりに日本の独立回復を認めた51(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約と日米安保条約により、改宗の可能性もまた封じられてしまった。そう私は考えています。
※ 週刊朝日 2014年10月3日号
美智子皇后陛下は、キリスト教の聖心女子大出身というのは有名な話である。秋篠宮眞子内親王はプロテスタントの国際基督教大、佳子内親王も国際基督教大を受験予定であるが、幼少期の教育係もキリスト教のシスターだったと聞く。三笠宮妃の信子様は小学校・中学校と聖心女子学院に通われているが、兄の麻生太郎元首相はカトリック教徒である。雅子様も、ご兄弟はカトリック教徒。今上天皇の教育係も女性のキリスト教徒であるし、昭和天皇の初代侍従長は珍田捨巳伯爵であるが、プロテスタント(メソジスト派)である。初代宮内庁長官の田島道治もクリスチャン。もちろん、終戦直後のキリスト教徒の多さはGHQへの配慮というのもあるかもしれないが、たしかに皇室関係者にキリスト教関係者が多いのは事実なようだ。これがどういうことを意味するのか、私はよく分からない。 早稲田大学院生の徒然なるブログより
昭和天皇が靖国神社を訪れなかった理由 新しい認識です
北海道羅臼漁港へ 酷寒の銀世界に魅せられて
「昭和天皇実録」を読み解くなかで、昭和史の断面、昭和天皇の素顔が浮かび上がってきた。
政治学者の原武史・明治学院大学教授(52)は母、貞明皇后との微妙な親子関係に注目し、昭和天皇のカトリックへの傾倒とその狙いを分析。
* * *
「昭和天皇実録」で私が注目したのは御告文(おつげぶみ)です。これは天皇が神に自分の思いを告げるための文。それが今回、いくつか公表されたことに驚きました。
たとえば太平洋戦争開戦直後、1941(昭和16)年12月9日の祭祀(さいし)の際の御告文。「海に陸に空に射向ふ敵等を速に伐平らげ皇御国(すめらみくに)の大御稜威(おほみいつ)を四表八方に伊照り徹らしめ給ひて」とある。
これが1894(明治27)年に日清戦争を開戦した際の明治天皇の御告文とそっくり。「明治天皇紀」によると、日清戦争の時は「海路陸路に射向ふ冦等を速に伐平らげ食国の大御稜威を天下に照輝かし」と言っている。明らかに昭和天皇は、日清戦争の御告文を下敷きにしている。
もっとびっくりしたのは日本が降伏する直前の1945(昭和20)年7月30日から8月2日にかけて、宇佐神宮(大分県)と香椎宮(福岡県)、氷川神社(埼玉県)に勅使を送ったことです。宇佐と香椎へ使いを送る「勅使参向」は10年に1回の恒例行事。氷川神社は例祭。そこで「敵国撃破」を祈らせた御祭文が実録に記されている。
香椎宮の主祭神は神功皇后で、宇佐神宮は応神天皇。神功皇后は、応神天皇を身ごもりながら三韓征伐に行ったという逸話が「日本書紀」などに書かれている伝説の皇后です。
10日あまり後に日本は降伏する。天皇は戦争終結の気持ちをほぼ固めていたであろうこの時期に、なぜ強い調子で敵国撃破を祈らせたか。しかも、なぜ伊勢神宮ではなく、香椎宮と宇佐神宮だったのか。
貞明皇后は神功皇后に対する思い入れが強く、22(大正11)年には自ら香椎宮を参拝して、神功皇后の霊との一体化を願う和歌まで詠んでいます。神功皇后の三韓征伐を史実と信じた貞明皇后は、45年になっても戦勝を祈り続けていました。昭和天皇が香椎宮と宇佐神宮に勅使を送ったのは、母親向けのポーズだったのではないか。
昭和天皇はヨーロッパから帰国して間もない21年11月に20歳で摂政になります。
翌22年の11月23日、皇太子は新嘗祭に出ていない。陸軍特別大演習の統監と地方視察のため四国にいたからです。当日は迎賓館として建てられた松山市の久松家別邸、現在の萬翠荘で終日、謹慎することになっていた。ところが今回の実録で、皇太子はビリヤードと将棋をしていたことが明らかになった。
謹慎すべき日に遊んでいたことが貞明皇后にも伝わり、宮中に激震が走ったんじゃないかと私は推測しています。
摂政になる直前の21年、皇太子は半年かけて欧州各国を訪問しました。この訪欧で私が興味をひかれたのは、最後にイタリアに行きローマ法王ベネディクト15世に会ったことです。
法王はカトリック教会の逸話を紹介し、日本が教会と提携するよう皇太子に勧めた。朝鮮独立をめざす3.1運動が19(大正8)年に起きた際、カトリック教徒が動かなかったことに触れ、「カトリックは確立した国体・政体の変更を許さない。世界の平和維持・秩序保持のため過激思想に対し奮闘しつつある最大の有力団体」と述べ日本がカトリック国になっても、天皇制は微動だにしない、と説いた。
訪欧最後のこの体験が、若き昭和天皇に強い印象を与えた。対米開戦直前の41年11月2日、天皇はローマ法王を通じた時局収拾の検討を東条英機首相に提案しています。開戦直前から、バチカンを通じての戦争終結の手段を考えろと言っていたわけです。
敗戦後の占領期、天皇はキリスト教、とくにカトリックに接近しました。キリスト教徒に頻繁に会い、牧師の植村環(たまき)からは香淳皇后とともに聖書の進講を受けています。植村が訪米する前後にも会い、トルーマン米大統領への伝言を伝えている。
皇后は戦前からキリスト教徒と親しかった。開戦後の42(昭和17)年から44(同19)年にかけて、皇后はキリスト教徒の野口幽香(ゆか)を宮中に招き入れて定期的に聖書の講義を受けています。天皇はこれを黙認。
天皇は外国人とも会っています。聖心愛子会というカトリック団体の聖園(みその)テレジアというドイツ生まれの修道女。慈生会のフロジャックというフランス人神父。48(昭和23)年1月23日の実録によると、天皇はフロジャックが日本のカトリックの現状を報告するためローマ法王庁を訪れる前後に会っている。6月9日にはローマ法王庁から来日したスペルマン枢機卿らの一行とも会いました。
終戦直前に敵国撃破を祈ったのが九州の宇佐と香椎だった。しかしその1週間後、長崎に2発目の原爆が投下された。
天皇がカトリックに接近した理由は、やはり21年の訪欧の経験が効いている。
敵国撃破を祈ってしまった神道に対する反省があったことや、共産党が合法化されて左翼活動が盛んになり、革命の恐怖があったことも挙げられるでしょう。しかし最大の理由は、GHQ(連合国軍総司令部)やマッカーサーに従い、皇太子の英語教師としてクエーカー教徒のヴァイニング夫人を呼ぶなど米国経由のキリスト教を取り入れる一方で、米国に対抗できる別のチャンネルも確保しておきたいという思惑があったからではないでしょうか。
天皇は、退位すべきかどうか悩んでいたはずです。内大臣だった木戸幸一による「木戸幸一日記」には、45年8月29日に「戦争責任者を聯合(れんごう)国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだらうか」ともらす天皇の姿が描かれています。
一方、実録では、同じ場面が「御下問になる」と表現されており、ニュアンスが異なっています。実録の68(昭和43)年4月24日には、天皇が占領期を回想して稲田周一侍従長に「退位の意思はなかった」と言ったと記され、実録全体が天皇は一度も退位の意思を示さなかったという前提で編集されているのです。
昭和天皇は、日本統治のため天皇の存在は有用だと考えたマッカーサーにより、退位の道を封じられた。では、それ以外のどんな方法で戦争責任を取れるのか。昭和天皇が占領期にカトリックに接近したのは、退位しない代わりにカトリックに改宗する道を探り、戦争責任と米国からの相対的自立という二つの課題にこたえようとしたからではないでしょうか。
しかし、東京裁判の判決を受け入れる代わりに日本の独立回復を認めた51(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約と日米安保条約により、改宗の可能性もまた封じられてしまった。そう私は考えています。
※ 週刊朝日 2014年10月3日号
美智子皇后陛下は、キリスト教の聖心女子大出身というのは有名な話である。秋篠宮眞子内親王はプロテスタントの国際基督教大、佳子内親王も国際基督教大を受験予定であるが、幼少期の教育係もキリスト教のシスターだったと聞く。三笠宮妃の信子様は小学校・中学校と聖心女子学院に通われているが、兄の麻生太郎元首相はカトリック教徒である。雅子様も、ご兄弟はカトリック教徒。今上天皇の教育係も女性のキリスト教徒であるし、昭和天皇の初代侍従長は珍田捨巳伯爵であるが、プロテスタント(メソジスト派)である。初代宮内庁長官の田島道治もクリスチャン。もちろん、終戦直後のキリスト教徒の多さはGHQへの配慮というのもあるかもしれないが、たしかに皇室関係者にキリスト教関係者が多いのは事実なようだ。これがどういうことを意味するのか、私はよく分からない。 早稲田大学院生の徒然なるブログより
昭和天皇が靖国神社を訪れなかった理由 新しい認識です
北海道羅臼漁港へ 酷寒の銀世界に魅せられて
ヘイトスピーチが乱れ飛んでいます。 百田尚樹はNHK経営委員を辞めるべきだ。 [戦争]
山桃の実が色付き、アジサイが歩道を美しく飾っています。根室海峡ではシャチのウオッチングが盛り上がりを見せているようです。
蒸し暑い日が続きます。
NHK経営委員の百田尚樹氏が岐阜に続いて静岡でも独善としか言えない発言を繰り返しています。
南太平洋のバヌアツ、ナウルをくそ貧乏長屋にたとえ、泥棒も入らない国といったそうです。
しかし、1942年帝国陸軍がナウルを占領し、空港を建設したと年表にあります。
18日、静岡市では「日教組は本当に日本のがん」「南京大虐殺はなく、従軍慰安婦はうそ」などと発言しました。
講演会は静岡青年会議所が主催。百田氏は参加者から日本の教育に対する考えを問われ「日教組は何十年間も、純粋無垢な子どもたちに贖罪意識を教え込んでいる。まず『日本は素晴らしい』ということを教えなければいけない」と持論を展開。
その上で「日本人でいることが恥ずかしいと教え込まれた子どもたちは立派な大人になれない」「自虐思想があるので、南京大虐殺、従軍慰安婦問題にノーと言えない。正しい知識を身に付けたら、歴史捏造というのはすぐ分かる」などと述べた。 東京大空襲については「わずか2時間で一般市民12万人が焼き殺された。大虐殺で戦争犯罪だ」と指摘した。
この発言日米開戦から太平洋戦争への流れを無視した独断と偏見に満ちています。
この戦争を主導した軍部と政治家たちを断罪してこそ新しい誇り有る日本が生まれるということを新しい世代に教えるべきです。
自虐思想の持ち主は百田尚樹本人では???
教訓は正しい歴史認識の中から生まれる。
1923年9月1日正午前に発生し、首都圏に甚大な被害を与えた関東大震災。その渦中で「朝鮮人が暴動を起こす」「井戸に毒を入れた」といったデマが広がり、大勢の朝鮮人が殺された。
加害者の多くは、デマを信じた住民たちだった。 57Kgから55Kgへ2Kg減量成功!!
蒸し暑い日が続きます。
NHK経営委員の百田尚樹氏が岐阜に続いて静岡でも独善としか言えない発言を繰り返しています。
南太平洋のバヌアツ、ナウルをくそ貧乏長屋にたとえ、泥棒も入らない国といったそうです。
しかし、1942年帝国陸軍がナウルを占領し、空港を建設したと年表にあります。
18日、静岡市では「日教組は本当に日本のがん」「南京大虐殺はなく、従軍慰安婦はうそ」などと発言しました。
講演会は静岡青年会議所が主催。百田氏は参加者から日本の教育に対する考えを問われ「日教組は何十年間も、純粋無垢な子どもたちに贖罪意識を教え込んでいる。まず『日本は素晴らしい』ということを教えなければいけない」と持論を展開。
その上で「日本人でいることが恥ずかしいと教え込まれた子どもたちは立派な大人になれない」「自虐思想があるので、南京大虐殺、従軍慰安婦問題にノーと言えない。正しい知識を身に付けたら、歴史捏造というのはすぐ分かる」などと述べた。 東京大空襲については「わずか2時間で一般市民12万人が焼き殺された。大虐殺で戦争犯罪だ」と指摘した。
この発言日米開戦から太平洋戦争への流れを無視した独断と偏見に満ちています。
この戦争を主導した軍部と政治家たちを断罪してこそ新しい誇り有る日本が生まれるということを新しい世代に教えるべきです。
自虐思想の持ち主は百田尚樹本人では???
教訓は正しい歴史認識の中から生まれる。
1923年9月1日正午前に発生し、首都圏に甚大な被害を与えた関東大震災。その渦中で「朝鮮人が暴動を起こす」「井戸に毒を入れた」といったデマが広がり、大勢の朝鮮人が殺された。
加害者の多くは、デマを信じた住民たちだった。 57Kgから55Kgへ2Kg減量成功!!
日本帝国の独裁者達 強欲と権力への執着 [戦争]
NHKスペシャル 「終戦 なぜ早く決められなかったのか」を見ました。
三国志の中に出てくる王と百官と武官たちを連想します。西暦百年代から二百年代ごろの権力機構。
王と己以外は、権力を維持するための道具として扱う。 独裁者達の本質。
権力の座を維持することしか考えない気の弱い保身主義者の集まり。
本心と口から出る言葉が違うのは彼らの性格の裏付け。有るのは権力と強欲と自身の保身だけ。
日本帝国の独裁者達の本質とはまさに強欲と保身。
独裁者ではなく独裁者たち。
生きている価値があるのは独裁者達のみ。 以外は使い捨ての兵器。 決して人間としては扱わない。 武士道も日本帝国主義も同じようなもの。 自身が生き残るためにはすべてを犠牲にする。負けを認めない。
白を黒と言い、敗戦を終戦と言い換える 独裁者達の悪知恵。 非を認めない。
池上彰の「日本には独裁者がいなかった」には異論!!
ソビエトが参戦することを知りながら議題にも載せなかった軍、政治家。 歴史は真実を語る。
日本帝国主義者たちの馬鹿さ加減には腹が立つ。
今流行りのいじめにも通じる。
三国志の中に出てくる王と百官と武官たちを連想します。西暦百年代から二百年代ごろの権力機構。
王と己以外は、権力を維持するための道具として扱う。 独裁者達の本質。
権力の座を維持することしか考えない気の弱い保身主義者の集まり。
本心と口から出る言葉が違うのは彼らの性格の裏付け。有るのは権力と強欲と自身の保身だけ。
日本帝国の独裁者達の本質とはまさに強欲と保身。
独裁者ではなく独裁者たち。
生きている価値があるのは独裁者達のみ。 以外は使い捨ての兵器。 決して人間としては扱わない。 武士道も日本帝国主義も同じようなもの。 自身が生き残るためにはすべてを犠牲にする。負けを認めない。
白を黒と言い、敗戦を終戦と言い換える 独裁者達の悪知恵。 非を認めない。
池上彰の「日本には独裁者がいなかった」には異論!!
ソビエトが参戦することを知りながら議題にも載せなかった軍、政治家。 歴史は真実を語る。
日本帝国主義者たちの馬鹿さ加減には腹が立つ。
今流行りのいじめにも通じる。
<果てなき白骨街道>6 飢え、心もむしばむ (中日新聞より) [戦争]
6月30日の中日新聞より抜粋しました。
撤退の山河をさまよい、兵たちの軍服はとうに擦り切れている。
麻の米袋を頭からかぶり、穴から顔と手を出している。ふんどし一丁、裸の者もいる。つえをつきながらも、飯ごうと水筒だけは手放さない。
第三一師団(烈兵団)衛生隊の上等兵望月耕一(89)=静岡市清水区=が歩いた山道では、物ごいと化した兵たちがへたり込んでいた。「みんな、ばあさんみたいな顔をしておった」。持っていたのは梅干しの種だけ。一人の兵に渡すと、両手を合わせて何度も望月を拝んだ。
一九四四(昭和十九)年夏、インパール方面から撤退する日本兵たちは、飢えていた。往路だけの米は尽き、英軍の猛爆で補給も届かない。非常食代わりに連れて行った牛馬も死んだ。
地元の集落へ入る。戦火を逃れて避難した住民が床下に隠していった籾(もみ)を血まなこで探す。鉄かぶとに放り込み、銃の柄ですりつぶして生で食べた。「ジャングル野菜」と呼んだ野草は、食べ続けると青い尿が出た。運良く寺院にたどり着いた兵は、黄色いけさ姿の僧侶におかゆを恵んでもらった。
「ゾウをぶっ殺せ」。ある部隊は、連れていた子象を撃ち殺し、硬い皮膚を軍刀でさばいて肉をゆでた。「臭みもなく、軟らかかった」。ワニの卵も食べた。飯ごうのふたで焼くとすぐに蒸発してしまうことが分かり、生のままむさぼった。
「少し先の町に、食糧庫がある」。兵たちは、伝え聞く話を信じて歩き続けた。
望月と同部隊で当時三十歳だった兵長服部州男(くにお)(名古屋市千種区)は、たどり着いた補給所で絶望した。「交付された食糧は、わずかに唇を潤すほどでしかなかった」と生前残した手記で嘆く。
その夜、雑木林で爆破音が響いた。駆け寄ると、分隊長が自爆していた。「気力の限界を知った彼は静かに一人、手榴(りゅう)弾を胸に抱いたのだった」と書く。配給を渋る倉庫管理の将校に、銃を突きつけて強引に食料を奪う兵もいた。
「この下、水あり」。祭兵団歩兵第六七連隊の兵長下村公(ひろし)(92)=三重県鳥羽市=は、先を行く兵が書き残した札を見つけた。
深い谷を下ると、小川に何人もの兵の死体が転がっていた。水を口にしたまま力尽きたのだろう。どれも水面に顔を突っ込んだまま。うじがわき、悪臭を放っている。
「でも、谷まで行ったからには水をくみたいから」。血に染まる水をのどを鳴らして飲み、水筒をいっぱいにする。だが、再び山をはい上がるとのどが渇き、水筒の水を飲みきってしまう。
下村は、行き倒れの兵が、傷口から血を流しているのを見た。しばらくすると別の兵が近寄り、その血をすすってのどを潤した。
軍馬の治療をする第一三兵站(へいたん)病馬廠(しょう)の伍長笹原新一(95)=石川県加賀市=は、ジャングルで二人組の日本兵に話しかけられた。
「肉はいらんか」
ウシやブタがいるような場所ではない。人里もない。「いらん」。首を横に振った。
男たちが立ち去ると、笹原たちはささやき合った。「あれ、人の肉やぞ」
日本兵の死体から太もも部分の肉が切り取られている。撤退の道のあちこちで、そんな不自然な死体を、何人もの兵が目撃した。
(敬称略)
撤退の山河をさまよい、兵たちの軍服はとうに擦り切れている。
麻の米袋を頭からかぶり、穴から顔と手を出している。ふんどし一丁、裸の者もいる。つえをつきながらも、飯ごうと水筒だけは手放さない。
第三一師団(烈兵団)衛生隊の上等兵望月耕一(89)=静岡市清水区=が歩いた山道では、物ごいと化した兵たちがへたり込んでいた。「みんな、ばあさんみたいな顔をしておった」。持っていたのは梅干しの種だけ。一人の兵に渡すと、両手を合わせて何度も望月を拝んだ。
一九四四(昭和十九)年夏、インパール方面から撤退する日本兵たちは、飢えていた。往路だけの米は尽き、英軍の猛爆で補給も届かない。非常食代わりに連れて行った牛馬も死んだ。
地元の集落へ入る。戦火を逃れて避難した住民が床下に隠していった籾(もみ)を血まなこで探す。鉄かぶとに放り込み、銃の柄ですりつぶして生で食べた。「ジャングル野菜」と呼んだ野草は、食べ続けると青い尿が出た。運良く寺院にたどり着いた兵は、黄色いけさ姿の僧侶におかゆを恵んでもらった。
「ゾウをぶっ殺せ」。ある部隊は、連れていた子象を撃ち殺し、硬い皮膚を軍刀でさばいて肉をゆでた。「臭みもなく、軟らかかった」。ワニの卵も食べた。飯ごうのふたで焼くとすぐに蒸発してしまうことが分かり、生のままむさぼった。
「少し先の町に、食糧庫がある」。兵たちは、伝え聞く話を信じて歩き続けた。
望月と同部隊で当時三十歳だった兵長服部州男(くにお)(名古屋市千種区)は、たどり着いた補給所で絶望した。「交付された食糧は、わずかに唇を潤すほどでしかなかった」と生前残した手記で嘆く。
その夜、雑木林で爆破音が響いた。駆け寄ると、分隊長が自爆していた。「気力の限界を知った彼は静かに一人、手榴(りゅう)弾を胸に抱いたのだった」と書く。配給を渋る倉庫管理の将校に、銃を突きつけて強引に食料を奪う兵もいた。
「この下、水あり」。祭兵団歩兵第六七連隊の兵長下村公(ひろし)(92)=三重県鳥羽市=は、先を行く兵が書き残した札を見つけた。
深い谷を下ると、小川に何人もの兵の死体が転がっていた。水を口にしたまま力尽きたのだろう。どれも水面に顔を突っ込んだまま。うじがわき、悪臭を放っている。
「でも、谷まで行ったからには水をくみたいから」。血に染まる水をのどを鳴らして飲み、水筒をいっぱいにする。だが、再び山をはい上がるとのどが渇き、水筒の水を飲みきってしまう。
下村は、行き倒れの兵が、傷口から血を流しているのを見た。しばらくすると別の兵が近寄り、その血をすすってのどを潤した。
軍馬の治療をする第一三兵站(へいたん)病馬廠(しょう)の伍長笹原新一(95)=石川県加賀市=は、ジャングルで二人組の日本兵に話しかけられた。
「肉はいらんか」
ウシやブタがいるような場所ではない。人里もない。「いらん」。首を横に振った。
男たちが立ち去ると、笹原たちはささやき合った。「あれ、人の肉やぞ」
日本兵の死体から太もも部分の肉が切り取られている。撤退の道のあちこちで、そんな不自然な死体を、何人もの兵が目撃した。
(敬称略)
<果てなき白骨街道>7 死悟り、寄り添う魂 (中日新聞より) [戦争]
7月1日の中日新聞から抜粋しました。 インパール作戦の日本軍
命よりも大切だと教えられた銃はとうに捨てた。いまは命だけを持って歩く。先が割れた靴を縄でしばり、裾が短冊のように裂けたズボンをまとう。生への執着に目だけをギラギラさせた日本兵は、互いの姿を「幽鬼」と呼んだ。
十メートル進んでは座り込む。背中にはびっしりと銀バエがたかる。「死にかけた人間はすでに内臓が腐り始めてるんだろう。ハエには、その臭いがわかったんだ」。第三一師団(烈兵団)の上等兵望月耕一(89)=静岡市清水区=は言う。目、鼻、口、耳、肛門。ハエは生きている人間の穴という穴に卵を産んだ。
司令部から正式な撤退命令が出たのは、作戦開始から四カ月後の一九四四(昭和十九)年七月四日。望月は「わしらはその後何カ月間も敵に追われ続けた。作戦中止命令なんて、戦後六十七年たった今でも聞いていない」と憤る。
飢えと疲れが最後の人間性を奪っていく。二人がようやく通れる狭い山道を、傷ついた兵に肩を貸した兵が登って来る。頂上で第一五軍野戦貨物廠(しょう)の少尉片山●(ただち)(90)=愛知県豊橋市=が見ていると、兵は突然、立ち止まり、負傷兵の荷物を奪った。肩から腕を外し、体を押す。負傷兵は声を上げる間もなく、崖下へ消えた。
「おまえ、何をするっ」。後ろにいた上官が見つけて怒鳴る。落とした兵も、疲れ切った他の兵も、表情を変えなかった。
名古屋市千種区の烈兵団兵長服部州男(くにお)は、傷病兵を担架に乗せて歩き続けた。「誰もが気力で担ぎ、魂で歩いているだけだった」と手記に残す。「捨ててくれ」と懇願する傷病兵もいた。夜の行軍で、担架が谷底に落とされるのを何度も見た。「その善悪を問うこと自体無意味だった」
川を渡る手前で、第一五軍司令部の少尉山崎教興(のりおき)(89)=愛知県瀬戸市=の側近、一等兵の菊田春雄がへたり込んだ。「もう歩けません」。二十八歳の女形の歌舞伎役者。体が小さく、体力もなかった。しきりに目をぬぐう菊田を、山崎は「泣くな」と励ました。よく見ると、目からこぼれるのは、涙ではなくうじだった。耳や鼻からもうじを出している。「少尉殿、先に行ってください。今までありがとうございました」。震える右手で最後の敬礼をした。
数時間後、山崎が戻ってみると菊田は息絶えていた。端正な顔が真っ黒に見える。群れで獲物を襲う凶暴な軍隊アリが、全身に群がっていた。ジャワジャワと、アリの体がこすれ合う音が聞こえた。
高温多雨のジャングルで、白骨になるのは三日もあれば十分だった。すれ違う兵が前方を指さす。「この先二キロに、二千もの死体があるぞ」。山頂のパゴダ(仏塔)へ続く五十段の階段を、日本兵の死体が埋めている。歯を食いしばり悔しそうな顔をした死体。きちんと軍服、軍帽を身につけた白骨。
生をあきらめた兵たちは、なぜか白骨の合間に自ら入り込んでいく。津市の祭兵団伍長藤塚信一(92)は「死体の間で、まだ動いているヤツをたくさん見た」。「たとえ白骨でも、最後は人間のそばに行きたかったんだろう」。死が死を呼んだ。
かつて、インパール入城を夢見た敗残兵が、足元に転がる人骨をガラガラ鳴らす。故郷へ続く白骨街道。杖(つえ)をつき、ひたすら歩く。
(敬称略)
(注)●は人ベンに呈
=終わり
(連載は鈴木孝昌、杉藤貴浩、沢田千秋が担当しました。「太平洋戦争最後の証言」は今回で終了します)
<インパール作戦後の日本軍> 撤退でチンドウィン川を渡河した第15(祭)、31(烈)、33(弓)師団はビルマ(現ミャンマー)中部のマンダレー周辺に集結。作戦前、3個師団で計5万人だった兵力は1万人に減っていた。司令部は新兵を増員し、1944年12月~45年3月、インドから追撃してきた英軍とイラワジ会戦を戦って大敗。多くの兵はタイ方面へ敗走中に終戦を迎えた。ビルマ、タイ両国で捕虜生活を送り、47年ごろ復員した。3個師団を中心とする第15軍の総帰還者は2万9466人、戦死者は4万9930人だった。
命よりも大切だと教えられた銃はとうに捨てた。いまは命だけを持って歩く。先が割れた靴を縄でしばり、裾が短冊のように裂けたズボンをまとう。生への執着に目だけをギラギラさせた日本兵は、互いの姿を「幽鬼」と呼んだ。
十メートル進んでは座り込む。背中にはびっしりと銀バエがたかる。「死にかけた人間はすでに内臓が腐り始めてるんだろう。ハエには、その臭いがわかったんだ」。第三一師団(烈兵団)の上等兵望月耕一(89)=静岡市清水区=は言う。目、鼻、口、耳、肛門。ハエは生きている人間の穴という穴に卵を産んだ。
司令部から正式な撤退命令が出たのは、作戦開始から四カ月後の一九四四(昭和十九)年七月四日。望月は「わしらはその後何カ月間も敵に追われ続けた。作戦中止命令なんて、戦後六十七年たった今でも聞いていない」と憤る。
飢えと疲れが最後の人間性を奪っていく。二人がようやく通れる狭い山道を、傷ついた兵に肩を貸した兵が登って来る。頂上で第一五軍野戦貨物廠(しょう)の少尉片山●(ただち)(90)=愛知県豊橋市=が見ていると、兵は突然、立ち止まり、負傷兵の荷物を奪った。肩から腕を外し、体を押す。負傷兵は声を上げる間もなく、崖下へ消えた。
「おまえ、何をするっ」。後ろにいた上官が見つけて怒鳴る。落とした兵も、疲れ切った他の兵も、表情を変えなかった。
名古屋市千種区の烈兵団兵長服部州男(くにお)は、傷病兵を担架に乗せて歩き続けた。「誰もが気力で担ぎ、魂で歩いているだけだった」と手記に残す。「捨ててくれ」と懇願する傷病兵もいた。夜の行軍で、担架が谷底に落とされるのを何度も見た。「その善悪を問うこと自体無意味だった」
川を渡る手前で、第一五軍司令部の少尉山崎教興(のりおき)(89)=愛知県瀬戸市=の側近、一等兵の菊田春雄がへたり込んだ。「もう歩けません」。二十八歳の女形の歌舞伎役者。体が小さく、体力もなかった。しきりに目をぬぐう菊田を、山崎は「泣くな」と励ました。よく見ると、目からこぼれるのは、涙ではなくうじだった。耳や鼻からもうじを出している。「少尉殿、先に行ってください。今までありがとうございました」。震える右手で最後の敬礼をした。
数時間後、山崎が戻ってみると菊田は息絶えていた。端正な顔が真っ黒に見える。群れで獲物を襲う凶暴な軍隊アリが、全身に群がっていた。ジャワジャワと、アリの体がこすれ合う音が聞こえた。
高温多雨のジャングルで、白骨になるのは三日もあれば十分だった。すれ違う兵が前方を指さす。「この先二キロに、二千もの死体があるぞ」。山頂のパゴダ(仏塔)へ続く五十段の階段を、日本兵の死体が埋めている。歯を食いしばり悔しそうな顔をした死体。きちんと軍服、軍帽を身につけた白骨。
生をあきらめた兵たちは、なぜか白骨の合間に自ら入り込んでいく。津市の祭兵団伍長藤塚信一(92)は「死体の間で、まだ動いているヤツをたくさん見た」。「たとえ白骨でも、最後は人間のそばに行きたかったんだろう」。死が死を呼んだ。
かつて、インパール入城を夢見た敗残兵が、足元に転がる人骨をガラガラ鳴らす。故郷へ続く白骨街道。杖(つえ)をつき、ひたすら歩く。
(敬称略)
(注)●は人ベンに呈
=終わり
(連載は鈴木孝昌、杉藤貴浩、沢田千秋が担当しました。「太平洋戦争最後の証言」は今回で終了します)
<インパール作戦後の日本軍> 撤退でチンドウィン川を渡河した第15(祭)、31(烈)、33(弓)師団はビルマ(現ミャンマー)中部のマンダレー周辺に集結。作戦前、3個師団で計5万人だった兵力は1万人に減っていた。司令部は新兵を増員し、1944年12月~45年3月、インドから追撃してきた英軍とイラワジ会戦を戦って大敗。多くの兵はタイ方面へ敗走中に終戦を迎えた。ビルマ、タイ両国で捕虜生活を送り、47年ごろ復員した。3個師団を中心とする第15軍の総帰還者は2万9466人、戦死者は4万9930人だった。