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<果てなき白骨街道>7 死悟り、寄り添う魂  (中日新聞より) [戦争]

 7月1日の中日新聞から抜粋しました。 インパール作戦の日本軍


 命よりも大切だと教えられた銃はとうに捨てた。いまは命だけを持って歩く。先が割れた靴を縄でしばり、裾が短冊のように裂けたズボンをまとう。生への執着に目だけをギラギラさせた日本兵は、互いの姿を「幽鬼」と呼んだ。IMG_3476.jpg

 十メートル進んでは座り込む。背中にはびっしりと銀バエがたかる。「死にかけた人間はすでに内臓が腐り始めてるんだろう。ハエには、その臭いがわかったんだ」。第三一師団(烈兵団)の上等兵望月耕一(89)=静岡市清水区=は言う。目、鼻、口、耳、肛門。ハエは生きている人間の穴という穴に卵を産んだ。

 司令部から正式な撤退命令が出たのは、作戦開始から四カ月後の一九四四(昭和十九)年七月四日。望月は「わしらはその後何カ月間も敵に追われ続けた。作戦中止命令なんて、戦後六十七年たった今でも聞いていない」と憤る。

 飢えと疲れが最後の人間性を奪っていく。二人がようやく通れる狭い山道を、傷ついた兵に肩を貸した兵が登って来る。頂上で第一五軍野戦貨物廠(しょう)の少尉片山●(ただち)(90)=愛知県豊橋市=が見ていると、兵は突然、立ち止まり、負傷兵の荷物を奪った。肩から腕を外し、体を押す。負傷兵は声を上げる間もなく、崖下へ消えた。

 「おまえ、何をするっ」。後ろにいた上官が見つけて怒鳴る。落とした兵も、疲れ切った他の兵も、表情を変えなかった。IMG_3503.jpg

 名古屋市千種区の烈兵団兵長服部州男(くにお)は、傷病兵を担架に乗せて歩き続けた。「誰もが気力で担ぎ、魂で歩いているだけだった」と手記に残す。「捨ててくれ」と懇願する傷病兵もいた。夜の行軍で、担架が谷底に落とされるのを何度も見た。「その善悪を問うこと自体無意味だった」

 川を渡る手前で、第一五軍司令部の少尉山崎教興(のりおき)(89)=愛知県瀬戸市=の側近、一等兵の菊田春雄がへたり込んだ。「もう歩けません」。二十八歳の女形の歌舞伎役者。体が小さく、体力もなかった。しきりに目をぬぐう菊田を、山崎は「泣くな」と励ました。よく見ると、目からこぼれるのは、涙ではなくうじだった。耳や鼻からもうじを出している。「少尉殿、先に行ってください。今までありがとうございました」。震える右手で最後の敬礼をした。

 数時間後、山崎が戻ってみると菊田は息絶えていた。端正な顔が真っ黒に見える。群れで獲物を襲う凶暴な軍隊アリが、全身に群がっていた。ジャワジャワと、アリの体がこすれ合う音が聞こえた。

 高温多雨のジャングルで、白骨になるのは三日もあれば十分だった。すれ違う兵が前方を指さす。「この先二キロに、二千もの死体があるぞ」。山頂のパゴダ(仏塔)へ続く五十段の階段を、日本兵の死体が埋めている。歯を食いしばり悔しそうな顔をした死体。きちんと軍服、軍帽を身につけた白骨。

 生をあきらめた兵たちは、なぜか白骨の合間に自ら入り込んでいく。津市の祭兵団伍長藤塚信一(92)は「死体の間で、まだ動いているヤツをたくさん見た」。「たとえ白骨でも、最後は人間のそばに行きたかったんだろう」。死が死を呼んだ。

 かつて、インパール入城を夢見た敗残兵が、足元に転がる人骨をガラガラ鳴らす。故郷へ続く白骨街道。杖(つえ)をつき、ひたすら歩く。

 (敬称略)

 (注)●は人ベンに呈

 =終わりIMG_3575.jpg

(連載は鈴木孝昌、杉藤貴浩、沢田千秋が担当しました。「太平洋戦争最後の証言」は今回で終了します)

 <インパール作戦後の日本軍> 撤退でチンドウィン川を渡河した第15(祭)、31(烈)、33(弓)師団はビルマ(現ミャンマー)中部のマンダレー周辺に集結。作戦前、3個師団で計5万人だった兵力は1万人に減っていた。司令部は新兵を増員し、1944年12月~45年3月、インドから追撃してきた英軍とイラワジ会戦を戦って大敗。多くの兵はタイ方面へ敗走中に終戦を迎えた。ビルマ、タイ両国で捕虜生活を送り、47年ごろ復員した。3個師団を中心とする第15軍の総帰還者は2万9466人、戦死者は4万9930人だった。

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