フランケンシュタインの誘惑 森鴎外と脚気 サンコウチョウ [戦争]
森鴎外は医者、科学者失格。異常なエリート意識の塊。…驚いた・・・安倍首相と変わらない
「阿部一族」とは???? 海軍を蔑視、対立する森林太郎。
明治、脚気は、コレラ、結核と並ぶ深刻な病気でした。
ヨーロッパにはない病気であることから、アジアの風土病、アジアの自然界にある細菌が原因だと考える研究者は多かった。
1876年(明治9年)、ドイツのロベルト・コッホが炭疽菌を発見。細菌がさまざまな病気の原因になるということが解り始めていた。
東大医学部はドイツ医学を導入。森鴎外や石黒忠悳(陸軍省医務局長)は東大医学部で学び、ドイツに留学。細菌説をとっていた。
当時の明治政府は、薩長という2大藩閥に支配され、陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥。
森林太郎(鴎外)は長州藩の隣国、津和野藩の出身。いっぽう、高木は薩摩藩支配の日向国諸県郡の出身。
明治初期に、日本は西洋医学を導入する。
薩摩藩は、幕末からイギリスとの関係が深く、ウィリアム・ウィリスというイギリス人医師とすでに契約も済ませていた。海軍軍医の高木兼寛はイギリスで医学を学ぶ。
この決定に反対したのが佐賀藩出身の蘭学者・相良知庵。
相良は細菌学によって急進しつつあったドイツ医学こそ世界の最先端であると熱烈に説いて、イギリス医学導入という政府決定を覆した。
高木はヨーロッパに脚気がないことから、脚気の原因を蛋白質の不足と考え、肉食すれば脚気を防げるのではないかと推測。
明治17年(1884)、訓練航海のときに2隻の船の食事内容をそれぞれ和食と洋食にした。すると、和食のほうには脚気が発生し、洋食のほうには発生しなかった。
以後、海軍では洋食をとりいれ、やがて肉より麦飯がよいことも判明して、その後は脚気に悩まされることがほとんどなくなった。日清戦争の前のことです。
しかし、細菌説に固執する石黒や森鴎外は、海軍が兵食改革によって脚気が激減した結果を無視、「日本男児は白米を食べないと力がでない」などといって陸軍の兵食はあくまでも白米とした。
陸軍は日清戦争で3944人(戦死者は293人)日露戦争で27800人(戦死者は47000人、脚気患者もいた)の兵士を脚気で死なせることになった。
「エリートの経歴と名誉が傷つくことを恐れた森鴎外と東大医学部」
海軍ではほぼ撲滅された脚気が、陸軍では日露戦争時にいたっても改善されなかった。
森鴎外が麦飯導入を拒み、日露戦争でも陸軍では約25万人の脚気患者が発生、約2万7千人が死亡するという無残な事態を生み出し、戦死者の多くも脚気にかかっていた。
戦中戦後、鴎外を非難する声は陸軍内部にもあったが、鴎外が責任を取ることはなかった。
1910年12月13日
鈴木梅太郎が米糠からオリザニン(ビタミンB1)を発見したのちも、鴎外は一貫して細菌説に固執。
その筆力をもって栄養説を批判し、鈴木を罵倒する論文をたびたび発表した。
鈴木が東大農学部出身であることから「百姓学者のマユツバ研究」と揶揄し、「農学者が何を言うか、糠が効くのなら小便でも効くだろう」とまでいった。
鈴木の発見はノーベル賞に値するものでしたが、森鴎外や 東大医学部からの激しい嫉妬によってノーベル委員会に推薦されることもなかった。
森鴎外は自己の過ちを、死ぬまで認めず、細菌説を主張し続けます。
鴎外は陸軍軍医総監、かつ陸軍省医務局長という地位に上り詰めます。陸軍軍医総監は中将に相当するポジション。 (…から引用…)
・・安倍政権を彷彿とさせる明治支配層の実態・・驚きましたね・・・
「阿部一族」とは???? 海軍を蔑視、対立する森林太郎。
明治、脚気は、コレラ、結核と並ぶ深刻な病気でした。
ヨーロッパにはない病気であることから、アジアの風土病、アジアの自然界にある細菌が原因だと考える研究者は多かった。
1876年(明治9年)、ドイツのロベルト・コッホが炭疽菌を発見。細菌がさまざまな病気の原因になるということが解り始めていた。
東大医学部はドイツ医学を導入。森鴎外や石黒忠悳(陸軍省医務局長)は東大医学部で学び、ドイツに留学。細菌説をとっていた。
当時の明治政府は、薩長という2大藩閥に支配され、陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥。
森林太郎(鴎外)は長州藩の隣国、津和野藩の出身。いっぽう、高木は薩摩藩支配の日向国諸県郡の出身。
明治初期に、日本は西洋医学を導入する。
薩摩藩は、幕末からイギリスとの関係が深く、ウィリアム・ウィリスというイギリス人医師とすでに契約も済ませていた。海軍軍医の高木兼寛はイギリスで医学を学ぶ。
この決定に反対したのが佐賀藩出身の蘭学者・相良知庵。
相良は細菌学によって急進しつつあったドイツ医学こそ世界の最先端であると熱烈に説いて、イギリス医学導入という政府決定を覆した。
高木はヨーロッパに脚気がないことから、脚気の原因を蛋白質の不足と考え、肉食すれば脚気を防げるのではないかと推測。
明治17年(1884)、訓練航海のときに2隻の船の食事内容をそれぞれ和食と洋食にした。すると、和食のほうには脚気が発生し、洋食のほうには発生しなかった。
以後、海軍では洋食をとりいれ、やがて肉より麦飯がよいことも判明して、その後は脚気に悩まされることがほとんどなくなった。日清戦争の前のことです。
しかし、細菌説に固執する石黒や森鴎外は、海軍が兵食改革によって脚気が激減した結果を無視、「日本男児は白米を食べないと力がでない」などといって陸軍の兵食はあくまでも白米とした。
陸軍は日清戦争で3944人(戦死者は293人)日露戦争で27800人(戦死者は47000人、脚気患者もいた)の兵士を脚気で死なせることになった。
「エリートの経歴と名誉が傷つくことを恐れた森鴎外と東大医学部」
海軍ではほぼ撲滅された脚気が、陸軍では日露戦争時にいたっても改善されなかった。
森鴎外が麦飯導入を拒み、日露戦争でも陸軍では約25万人の脚気患者が発生、約2万7千人が死亡するという無残な事態を生み出し、戦死者の多くも脚気にかかっていた。
戦中戦後、鴎外を非難する声は陸軍内部にもあったが、鴎外が責任を取ることはなかった。
1910年12月13日
鈴木梅太郎が米糠からオリザニン(ビタミンB1)を発見したのちも、鴎外は一貫して細菌説に固執。
その筆力をもって栄養説を批判し、鈴木を罵倒する論文をたびたび発表した。
鈴木が東大農学部出身であることから「百姓学者のマユツバ研究」と揶揄し、「農学者が何を言うか、糠が効くのなら小便でも効くだろう」とまでいった。
鈴木の発見はノーベル賞に値するものでしたが、森鴎外や 東大医学部からの激しい嫉妬によってノーベル委員会に推薦されることもなかった。
森鴎外は自己の過ちを、死ぬまで認めず、細菌説を主張し続けます。
鴎外は陸軍軍医総監、かつ陸軍省医務局長という地位に上り詰めます。陸軍軍医総監は中将に相当するポジション。 (…から引用…)
・・安倍政権を彷彿とさせる明治支配層の実態・・驚きましたね・・・
2017-07-02 16:06
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