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原子爆弾、 チャーチルの狂気と長崎・広島  (知床の流氷) [戦争と環境破壊]

     1940~41年絶望的な戦況の中、原子爆弾に活路を求めたチャーチルの狂気。[000111].jpg
 チャーチルの狂気が、広島、長崎の地獄の惨劇を現実世界に焼き付け、核の恐怖を世界に知らしめた。
 チャーチルの野望が実現した瞬間である。[000162].jpg
 チャーチルが主導開発した原子爆弾。
 イギリスの科学者主導で綿密に計画された広島、長崎への投下作戦。DSCN2856.jpg
原子爆弾の威力を最大限に引き出し、その効果を全世界にアピールする事がチャーチルの望みであった。IMG_1182.jpg
 1945年5月ドイツが降伏。ヤルタ会談ではソビエトを対日戦争に参戦させる為、アメリカ、イギリス、ソビエトとの間で密約が交わされた。
ソビエトに南樺太と千島列島を割譲する協定であった。IMG_1850.jpg
 この協定がイギリスとアメリカに日本への原爆投下を決定させる重要な役割を果たす。IMG_1861a.jpg
     イギリスで発見された機密文書が語る原子爆弾とチャーチルの野望。
     全てはチャーチルの狂気に満ちた権力への執着から始まった。IMG_1862a.jpg
     1945年7月16日。原子爆弾実験に成功。IMG_3128a.jpg
アメリカとイギリスはソビエトに南樺太と千島列島を割譲することを嫌い、原子爆弾の使用を決意する。IMG_3222.jpg
     トルーマンとチャーチルは1945年7月2日、日本への原爆投下を同意していた。
     原子爆弾の最大限の効果を実証する為に広島と長崎が選ばれた。IMG_3232.jpg

  4年前の1941年、皇国日本による真珠湾奇襲攻撃が行われた。IMG_3333.jpg
ヒトラーによるイギリス本土空襲で絶望的な状況に追いやられていたチャーチルは起死回生の手段として原子爆弾を熱望すると同時に、孤立主義をとり戦争に参加しようとしないアメリカの参戦を必須の課題としていた。IMG_3793.jpg
  1941年12月8日。チャーチルにとって何事にも代えがたい奇跡が訪れた。
  地獄からの生還である。IMG_3799.jpg
  万事に失敗を繰り返してきた無能なチャーチルに歓喜の時が訪れた。
  アメリカが参戦を決意した瞬間である。IMG_3806.jpg
1938年、ドイツで新型爆弾の可能性を示す核分裂理論が発見された。IMG_3816.jpg
1939年、アインシュタインはヒットラーが原子爆弾の開発に成功する事を恐れ、ルーズベルトに原子爆弾の開発を勧める親書を送った。IMG_3823.jpg
ルーズベルトは実用には巨大すぎる爆弾の開発に否定的であった。IMG_7438.jpg
    転機が訪れたのは1941年。IMG_7898.jpg
イギリスの優秀な科学者ルドルフ・パイエルがウラン235の分離濃縮方法を発見した。ウラン鉱石に占めるウラン235の比率は0.7%、99.3%はウラン238。IMG_8280.jpg
1942年6月。チャーチルがアメリカを訪問。原子爆弾に関わる情報の交換とマンハッタン計画を立ち上げた。[000048].jpg
以降、イギリスの優秀な科学者達がアメリカの若く未熟な科学者達を牽引し原子爆弾製造へと突き進んでゆく。 IMG_8313.jpg ・・・・・(チュウ-ブ・アロイズ。原子爆弾投下、チャーチルの戦略より)・・・・

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