SSブログ

蒋介石の世界戦略と真珠湾奇襲攻撃   (知床の流氷) [戦争]

日米開戦を待ち望んだ蒋介石。その先にあったのが真珠湾奇襲攻撃。IMG_3834a.jpg
アメリカの対日政策に失望した蒋介石が最後に頼ったのがチャーチルだ。IMG_3889.jpg
蒋介石の日記に記された1941年十二月八日。
「本日、我が国の抗日戦略の成果は頂点に達した。」蒋介石の思いが結実した瞬間だ。
戦後、蒋介石の日記が公表され、日本が敗戦に至る道筋に新たな光が当てられた。
中国が決定的な役割を果たしていた。IMG_3893.jpg
「親愛なるルーズベルト大統領、極東の問題を解決する鍵を握っているのは貴方です。」
蒋介石は大量の書簡を使った外交戦略やプロパガンダでアメリカの干渉を導き出そうとしていた。
蒋介石はアメリカの参戦を求めていた。
イギリスやアメリカの資料は、日本がアメリカとの開戦を踏み止まる機会が何度も有った事を示している。IMG_3898.jpg
当時総理大臣だった近衛文麿や閣僚や軍部が、中国の動向や世界の潮流を見誤り自ら破滅への道を突き進んだことが明らかになった。[000047].jpg
皇国日本が、中国の国際的な外交戦略で破滅への道を突き進むことになる。DSC_9407.jpg
・・・・日中英米知られざる攻防。・・・・
1937年7月7日、北京の郊外、盧溝橋で起きた事件が八年に及んだ日中戦争のきっかけとなった。
その六年前に起きた関東軍による謀略事件、満州事変。当初、蒋介石は日本との戦争には消極的でした。しかし盧溝橋事件で日本への徹底抗戦を決意する。一対一では勝てないが第三国の力を利用出来れば日本に勝つことが出来る。蒋介石の世界戦略だ。DSCN2864.jpg
1941年八月九日。イギリスもアメリカもソ連も日本との戦いは望んでいなかった。
「日本が自滅の道を歩まない限り、我が国の活路は切り開かれない。」蒋介石の苦悩は続いた。
1937年八月十三日第二次上海事件が勃発した。蒋介石が巧妙に準備した戦いであった。近衛文麿は「暴支膺懲」中国を成敗して懲らしめるという声明を発表。しかし、初の苦戦となり二ヶ月で二万人の死者を出す。DSCN3026.jpg
日中戦争への国際的な干渉を引き出すことが蒋介石の狙いだった。
欧米列強の領事館や外国人居留区が集まる国際都市だった上海。
蒋介石は精鋭部隊をあらかじめ投入、トーチカで日本軍を待ち構えていた。
上海を戦場にする事で日本の蛮行を世界に知らせようとした蒋介石。
日本兵が「飲まず食わずの戦争でいっそ死ねばどれほど楽かと思う」という日誌を残している程の過酷な戦いだった。DSCN3203.jpg
当時、第一次世界大戦を通じて巨額の富を手に入れていたアメリカは伝統的に他国との戦いを避ける孤立主義を貫いていた。
1937年十一月中国の訴えを受けて日本への対応を検討する国際会議がベルギー、ブリュッセルで開かれた。しかし日本への非難声明は出されたが、具体的な制裁には触れられなかった。
世界をリードするアメリカが制裁の回避を主張、他の国も同調したIMG_0177.jpg
「アジアにおける平和と安定を望むならば政治上ならびに経済上の安全が保証されているという感覚を日本に与えなければならない。」(アメリカ国務省・政治顧問スタンリー・ホーンベック)
中国側に二十万人近い犠牲者を出し国際都市上海は陥落。蒋介石の望んだ日中戦争の国際化は実現しなかった。IMG_0777.jpg
この時期、日本はソビエトの脅威を背景にドイツを仲介とした和平交渉に乗り出していた。
抗日政策の放棄や上海地方を非武装地帯にする事など、中国も妥協可能な条件で水面下の交渉を探っていた。蒋介石もこの条件で交渉に応じる姿勢を示していた。
直後状況が一変する。日本の派遣軍が首都南京を一気に攻略。日本の政治家や軍人が和平条件のつり上げを主張。近衛もこれを追認。IMG_0810.jpg
その時の心境を綴った外務省、東亜局長・石射猪太郎の日記には、仲介のドイツ大使は「蒋介石はこれでは聞くまい」とその通り、「こんな条件で蒋介石が講和に出てきたら彼はアホだ。」と書いている。
日中戦争の早期収拾を目指していた日本、その好機を自ら逃すことになる。
1937年十二月の蒋介石の日記。IMG_0821.jpg
「もし日本が柔軟な条件を提示していれば政府内で対立が起き動揺すると懸念していた。今この様な過酷な条件を見て安心した。」
1938年一月。第一次近衛声明。「帝国政府は爾後国民政府を相手とせず。」日本軍は泥沼の戦いに突入していく。IMG_1992.jpg
蒋介石は重慶に拠点を移し長期持久戦へと戦略を変えていく。
日中戦争が始まってから一年あまりで百万人の兵力を投入してきた日本軍、その後も作戦のたびに多くの将兵が大陸にかり出された。
蒋介石の最大の課題はアメリカの関心を引き出すことだった。IMG_4784.jpg
1938年五月、本国から送られた二万ドルを使いアメリカのスチムソン委員会(日本の侵略に加担しないアメリカ委員会)に働きかけ、良い成果が出ていると報告。スチムソン委員会の発行するブックレットの表紙には日本の飛行機から落とされる爆弾はMADE IN USAと書かれ、アメリカの姿勢が日本の中国侵略を支えていると訴えていた。IMG_5371.jpg
アメリカは孤立主義的政策を修正。1939年7月26日、日米通商航海条約の破棄を通告。日本への経済制裁をちらつかせた。
中国の惨状を知ったアメリカ市民の八割以上がこの政策に賛同した。IMG_7205.jpg
1940年9月27日。日本はドイツイタリアと三国同盟を締結。近衛は「世界恒久の平和と進歩のため協力邁進する」と声明を出した。IMG_7210.jpg

蒋介石は日記にこう記した。「このニュースが事実ならば抗日戦の困難がまた一つ減ったことになる。まさに人知の及ばない神の助けで有る。」
「日本はドイツイタリアと協力関係を築いたが実際の効果は得がたく自身の孤立を深め危機を招くだろう。」と部下に語っている。IMG_7211.jpg
三国同盟の仮想敵国はアメリカであった。イギリスとの戦争に参戦させたくないドイツ。中国との戦争に参戦させたくない日本。枢軸国の思惑が中国とアメリカを接近させる。と蒋介石は見ていた。
当時日本の閣僚らが語っていたのはドイツへの懸念であった。戦後ドイツは南洋支那などを狙って経済的に進出してくる。蘭印・仏印については日本の政治的指導権を認めない。これに対処しなければならない。ドイツ勝利の後、英仏のアジア権益を分け合う事が狙いでした。日本にとって非常に重要な東南アジアの植民地がドイツの手に渡ってしまうことを危惧していた。IMG_7214.jpg
一年前、1939年9月1日。第二次世界大戦が勃発。
1940年になるとドイツの圧倒的な攻勢によりヨーロッパ諸国のアジア権益を巡る状況が激変。援蒋ルートと呼ばれる中国への支援ルートが断たれ(ビルマ・イギリス領、インドシナ・フランス領)蒋介石は持久戦の維持が困難に為っていた。DSCN3209.jpg
1940年10月16日。蒋介石は英国大使との会談で、日本への抗戦を止めることを示唆。米英への老練な外交戦略を展開する。
イギリスは本土攻略を狙うドイツと「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる熾烈な戦いを強いられていた。「中国が手を引くと日本の目がイギリスのアジア権益に向けられる。我々が望むことは仲間として利害をともにする事だ。」と蒋介石は主張。
アメリカは日本へのくず鉄の輸出を禁止。一方、中国は五千万ドルの借款の追加と航空機の提供を受ける。IMG_7405.jpg
1940年11月14日。蒋介石の日記には、イギリス・アメリカとの同盟が結べないなら、日本との戦争の継続を考え直さなければならないと書かれている。
1940年11月28日。日本は汪兆銘政権を承認。
1941年7月28日。日本は南部仏印に進駐。中国との戦争維持のための資源獲得に動いた。
アメリカの対日石油全面禁輸を招くことになる。IMG_7467.jpg
蒋介石はアメリカに積極的な働きかけを行う。イギリスとソ連と中国の同盟の提案を依頼。イギリスとアメリカによる太平洋防衛会議に参加する許可を求める。
しかしイギリスとアメリカはこの提案を拒否。
1941年8月20日。蒋介石の日記。「英米政府の本音と対応は極めて卑劣だ。日本に対して、ただ現状維持だけを希望している。」
「日本の中国侵略を容認。その本質は黄色人種に殺し合いをさせることだ。」
1941年11月。アメリカが各国に意見を求めた対日暫定協定案。その骨子は、日本が南部仏印から撤退すれば一定の物資提供を維持するというもの。中国からの撤兵は消えていた。  蒋介石は強い危機感を各国の首相に訴えた。
 「日本軍の撤兵問題が解決されないうちにアメリカの日本への経済制裁が緩和されれば中国の抗日戦は失敗し、民主主義に対するアジア民族の信頼も崩壊する。」IMG_7533x.jpg
このとき太平洋戦争開戦へと強い舵取りをしたのがチャーチルであった。
チャーチルはルーズベルトに電報を送り暫定協定案に強い懸念を表明した。「中国が崩壊すれば我々の直面する危機はさらに大きくなる。」
チャーチルが怖れていたことは、日本が条件をのむことでアメリカが参戦に踏み切らないことでした。
ナチスドイツとの厳しい戦いを強いられていたイギリスにとってアメリカの参戦は勝利への絶対条件であった。
「最も重要なことは中国が戦い続けることだ。」
アメリカは暫定協定案を破棄。改めて交渉の条件を示した。IMG_7637.jpg
「日本は中国から軍隊と警察の全てを撤退すること。」日本はこの条件を最後通牒と受け取る。
1941年12月8日。アメリカとの開戦、真珠湾奇襲攻撃が決行された。
・・・・・蒋介石の対米工作の成果が頂点に達した。・・・・・(開戦  太平洋戦争  日中英米  知られざる攻防)より

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。