究極の風見鶏 岸信介 創価学会第2代会長戸田城聖 ( 流氷の知床) [宗教と政治]
・・・・・・岸は1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』に署名。・・・・・・太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。
1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選。
1943年商工省が廃止され軍需省へと改組。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。
1944年(昭和19年)7月9日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となる。
7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し、岸は、「サイパン陥落に伴って今後本土空襲が繰り返されるであろうから軍需次官としての責任が果たせない」として講和を要求し、ならば辞職せよと東條に迫られるも拒否して閣内不一致を現出させた。
・・・(軍需次官としての責任が果たせない)?・・・国民への気配りは微塵もない。権力への執着だけが強調されている。・・・
岸の更迭は重臣入閣枠を空けるための既定路線であり、岸は内閣改造を頓挫させるために岡田重臣と申し合わせて辞職を拒否したともされる。
・・・岸は保身を図るための大芝居を打ったといえる。・・・
・・・戦況を国民に周知し講和へ向けて倒閣運動を起す様子は微塵も見られない。1945年8月まで何をしていたのか?・・・
1945(昭和20)年3月、岸新党=護国同志会を結成する。護国同志会の政策大綱は次の通り。
一、憲法に恪遵(=謹んで従う)し議会の権能を昂揚し国民の忠誠心を戦争政治に直結し以て必勝不敗の体制を確立す。
二、戦争政治の全面的刷新を断行し以て戦力の飛躍的増強と国土防衛の完璧を期す。
議会の力を強めて「国民の忠誠心」を結集し、「戦力の飛躍的増強」を図る。それにより「必勝不敗」の体制を作るというもの。
・・・この時期に徹底抗戦を主張する護国同志会の異常さを示している。
東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けた。特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。・・・
護国同志会は鈴木貫太郎内閣が本土決戦に消極的だとして倒閣運動を計画した。(天罰発言事件)
・・・岸信介の権力への執着心がうかがえる・・・。
・・・中曽根の上を行く風見鶏とは良く言ったものだ。・・・
・・・一億総玉砕が一億総懺悔に代わる時、戦争の大義は何処に在ったのかと考える。戦争の証人を全て抹殺し、軍部上層部だけが生き残る。保身だけを考える政権・宮中の実態を垣間見る。・・・
1944年サイパン陥落後、宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。・・・・大義は何処に在ったのか疑問だけが残る。・・・
創価学会第2代会長である戸田城聖とは個人的な付き合いがあり、1958年3月16日に大石寺大講堂で行われた広宣流布の記念式典に出席することになっていた。しかし、直前になって横やりが入ったため出席を断念。代理として、安倍晋太郎・洋子夫妻、南条徳男・前建設大臣を出席させた。
究極の風見鶏 岸信介
1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選。
1943年商工省が廃止され軍需省へと改組。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。
1944年(昭和19年)7月9日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となる。
7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し、岸は、「サイパン陥落に伴って今後本土空襲が繰り返されるであろうから軍需次官としての責任が果たせない」として講和を要求し、ならば辞職せよと東條に迫られるも拒否して閣内不一致を現出させた。
・・・(軍需次官としての責任が果たせない)?・・・国民への気配りは微塵もない。権力への執着だけが強調されている。・・・
岸の更迭は重臣入閣枠を空けるための既定路線であり、岸は内閣改造を頓挫させるために岡田重臣と申し合わせて辞職を拒否したともされる。
・・・岸は保身を図るための大芝居を打ったといえる。・・・
・・・戦況を国民に周知し講和へ向けて倒閣運動を起す様子は微塵も見られない。1945年8月まで何をしていたのか?・・・
1945(昭和20)年3月、岸新党=護国同志会を結成する。護国同志会の政策大綱は次の通り。
一、憲法に恪遵(=謹んで従う)し議会の権能を昂揚し国民の忠誠心を戦争政治に直結し以て必勝不敗の体制を確立す。
二、戦争政治の全面的刷新を断行し以て戦力の飛躍的増強と国土防衛の完璧を期す。
議会の力を強めて「国民の忠誠心」を結集し、「戦力の飛躍的増強」を図る。それにより「必勝不敗」の体制を作るというもの。
・・・この時期に徹底抗戦を主張する護国同志会の異常さを示している。
東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けた。特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。・・・
護国同志会は鈴木貫太郎内閣が本土決戦に消極的だとして倒閣運動を計画した。(天罰発言事件)
・・・岸信介の権力への執着心がうかがえる・・・。
・・・中曽根の上を行く風見鶏とは良く言ったものだ。・・・
・・・一億総玉砕が一億総懺悔に代わる時、戦争の大義は何処に在ったのかと考える。戦争の証人を全て抹殺し、軍部上層部だけが生き残る。保身だけを考える政権・宮中の実態を垣間見る。・・・
1944年サイパン陥落後、宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。・・・・大義は何処に在ったのか疑問だけが残る。・・・
創価学会第2代会長である戸田城聖とは個人的な付き合いがあり、1958年3月16日に大石寺大講堂で行われた広宣流布の記念式典に出席することになっていた。しかし、直前になって横やりが入ったため出席を断念。代理として、安倍晋太郎・洋子夫妻、南条徳男・前建設大臣を出席させた。
究極の風見鶏 岸信介
2020-09-17 09:15
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