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島津斉彬が名君........本当?? 知床の流氷 [社会、政治]

     島津家の跡継ぎで蘭癖の島津重豪に寵愛されていたボンボン育ち。DSC_0719.jpg

  当時、島津重豪は積極的に政略結婚を進め、将軍・家斉に娘を娶わせ、中津藩や福岡藩などの有力譜代大名や外様の大藩に息子たちを養嗣子として送り込んだ。これによって江戸時代後期の政界に絶大な影響力を持ち、高輪下馬将軍と称されていた。JM5A1856.jpg

これらの政策による莫大な出費は、最後には大名貸しからも資金調達を拒絶され、ついに市井の高利貸しからも借金する(500万両(現代の価値で約5000億円))羽目となり、「薩摩藩が天文学的借金を抱える原因を作った殿様」として家臣に糾弾されている。DSC_6449.jpg

 後に重豪は藩の財政改革に取り組み、下級武士の調所広郷を重用した。
  調所の財政再建は島津斉興の親政時に成果を見る。DSC_7068.jpg

  当時の薩摩藩の500万両という借金は、年間利息だけで年80万両を超えていた。これは薩摩藩の年収(12万から14万両)を超え、返済不可能であり、「無利子250年払い」の債務整理とした。DSC_7074.jpg
 
 また廃藩置県後に明治政府によって債務の無効が宣言される明治5年(1872年)までの35年間は、実際に返済が行われており、債権主の商人には、琉球、清との密貿易品に利権を優遇する代替措置も取っていた。DSC_7075.jpg

  琉球や清と行っていた密貿易にも携わる。天保3年(1832年)には家老格に、天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。弘化3年7月27日には志布志郷地頭となり、死ぬまで兼職する。DSC_7076.jpg

 当時、薩摩藩は500万両の借金を抱えて財政破綻寸前となっていた。これに対して広郷は借金を無利子で250年の分割払いにし、さらに行政改革、農政改革、財政改革を行った。DSC_7077.jpg

 これにより天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に200万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。
 この改革の取組みとして、琉球を通じた清との密貿易。大島・徳之島などから取れる砂糖の生産において、大坂の砂糖問屋の関与の排除を図った専売制や、商品作物の開発などがあった。DSC_7078.jpg

 やがて、斉興の後継を巡る島津斉彬と島津久光による争いがお家騒動(後のお由羅騒動)に発展。
広郷は斉興・久光派に与する。DSC_0709.jpg
 重豪に似た蘭癖の斉彬が藩主になることで再び財政が悪化するのを懸念してのことであると言われている。DSC_7079.jpg

 斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易(藩直轄地の坊津や琉球などを拠点としたご禁制品の中継貿易)に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。DSC_7081.jpg
 嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問される。同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺とも言われる。DSC_6437.jpg

斉彬が次の藩主となれば、重豪のように公金を湯水のごとく費やし藩財政の困窮に一層の拍車をかけかねないと、藩上層部に心配され、斉興は斉彬が40歳を過ぎても家督を譲らなかった。DSC_7081a.jpg
 また家老・調所広郷(笑左衛門)や斉興の側室・お由羅の方らは、お由羅の子で斉彬の異母弟に当たる久光の擁立を画策した。DSC_6425.jpg

 斉彬派側近は久光やお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏れて首謀者13名は切腹、また連座した約50名が遠島・謹慎に処せられた。JM5A2285.jpg
 斉彬派の4人が必死で脱藩し、斉興の叔父にあたる筑前福岡藩主・黒田斉溥に援助を求めた。
  斉溥の仲介で、斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平慶永らが事態収拾に努めた。JM5A2056.jpg
  こうして嘉永4年(1851年)2月に斉興が隠居し、斉彬が第11代藩主に就任した。(1858年8月24日死去)享年50 満49歳JM5A2057.jpg

 この一連のお家騒動はお由羅騒動(あるいは高崎崩れ)と呼ばれている。
 斉彬は藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。DSC_1877.jpg
 鍋島直正(閑叟(かんそう))は長崎警備の強化を掲げるも、幕府が財政難で支援を得られなかったことから、独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置し、反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置し、蒸気機関・蒸気船(凌風丸)までも完成させることにつながっている(それらの技術は母方の従兄弟にあたる島津斉彬にも提供されている)JM5A1609.jpg

また、当時不治の病であった天然痘を根絶するために、何も対策を打てずにいた幕府に先駆けて、オランダから牛痘ワクチンを輸入し、長男の直大で試験した後、大坂の緒方洪庵にも分け与えている。このことが日本における天然痘の根絶に繋がった。JM5A1854.jpg

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが来航し、江戸幕府老中の阿部正弘が各大名に意見を募った時、鍋島斉正(直正)はアメリカの武力外交に対して強く攘夷論を唱え、品川台場建設に佐賀藩の技術を提供し、正弘より信頼を得た。
 一方で、開国以前から密貿易で利益を上げていたとされるほど貿易の重要性を知っており、イギリスの親善外交に対して開国論を主張する。
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  斉彬、 ボンボン育ちの西洋かぶれとしか見えないのは育ちの良さのせいかな!!!
   西洋の産業、文化は、いやでも日本を飲み込んだ筈。
   長州、薩摩の暴走族の原動力は何だったの?P_20180505.jpg
 いずれにしても王政復古とは馬鹿げている。
 当時庶民は天皇の存在も知らなかった。天皇が何者かもわからなかった。
    ー長男から六男は夭折。長女から次女は夭折。ー 毒殺されたのかな?????

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