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孝明天皇毒殺説 (明治天皇の父) 魑魅魍魎のうごめく幕末・明治維新 ー 知床のヒグマ [殺人事件]

孝明天皇は痘瘡と診断されて八日目、慶応二年(1866年)十二月二十四日には膿も引き、朝から酉の半刻(午後七時)の間に五回に分けて「ほもじ」(干飯)を四碗、五椀目は八分まで食するほど回復した。BL6R0971.jpg
しかし、同夜には容態激変。二十五日には「御九穴(目・耳・鼻・口・尿道・肛門)より御脱血」(中山忠能日記)という奇怪な症状を呈し、亥の半刻(午後十一時)に崩御した。DSC_4847.jpg
享年三十六。天皇の死を悪性の痘瘡とするのが病死説。DSC_0057.jpg
毒殺説は宮中の女官たちによって流され、十五歳の睦仁親王(後の明治天皇)は鍾馗の様な父の怨霊を見て発熱した。(朝彦親王日記) DSC_0063.jpg
イギリス人アーネスト・サトウも、「その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだと言う、」とやがて回想することになる。(一外交官の見た明治維新)<坂田精一訳>
当時、幕府を支援するフランスに対抗して、イギリスは薩摩藩に深く肩入れをしていた。DSC_0102.jpg
サトウに対して毒殺説を告げたのは薩摩人で、岩倉具視や列参公卿らと水面下で繋がっていた可能性もある。DSC_5102.jpg
毒殺説に立つ歴史家は、孝明天皇が弑逆された理由を列参公卿らを厳しく譴責したことに求める。DSC_8931.jpg
和宮降嫁に尽力した岩倉具視、その妹の堀河紀子(孝明の元女房)ら六人は尊攘派から四奸二嬪と睨まれ、なおも免責されてはいない。DSC_8940.jpg
 八・一八政変の結果長州へ落ちた七卿の内、生存六卿も、帰京を許されてはいない。DSC_4696.jpg
そこにまた列参二十二卿が罰せられては、反幕派公卿たちは絶滅したも同然となる。DSC_4505.jpg
そこで岩倉たちは、この最悪の状況から逆転勝利を収めるべく天皇に「テロル」を仕掛けた。と毒殺論者は考えるのだ。(ねずまさし「天皇家の歴史」1976年)BL6R0986.jpg
具体的には岩倉が息のかかった女官を使い、天皇の薬湯に無味無臭の、砒素を入れた。ゆえに死因は急性砒素中毒。この論理の方が、「御九穴より御脱血」をうまく説明できるのだ。DSC_6787.jpg
< 幕末・明治の残照> 中村彰彦・・・より DSC_5670.jpg
魑魅魍魎のうごめく幕末・明治維新ですか???
まるで朝鮮王朝を描く韓国ドラマを見ているような錯覚を覚えませんか!!!!!BL6R1042.jpg
朝鮮と云えば岸信介、そして安倍へと続きます。
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