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軍艦島に隠された過去(強制労働) 普天間に枯葉剤   (流氷の知床) [戦争と環境破壊]

 軍艦島には隠された歴史がある。DSC_0709.jpg
 
 1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、大風による被害のために廃業に追い込まれた。DSC_1603.jpg

 36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)、これが第一竪坑である。DSC_2434.jpg

 1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。DSC_4573.jpg

 この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てであった。DSC_5924.jpg
大正期から朝鮮人労働者が増え、第二次世界大戦中には徴用と吉田飯場(朝鮮人の吉田が経営する飯場)を合わせて500人から600人ほど、自由渡航で来た所帯持ちの朝鮮人労働者も80人ほどが働いていた。IMG_0921.jpg

 中国人労働者も、1944年(昭和19年)に204人が徴用されてきた。給料や食事、休日などの虚偽の好条件で騙されてやってきた労働者が多く、劣悪な環境に耐えられず「島抜け」(泳いで島を脱出すること)や自殺をする者もいた。IMG_1055.jpg

 日本人の場合は自殺(縊死)が多かったのに対して、朝鮮人の場合は島抜けを試みる者が多かった。ただし、大半は溺死するか、警察や監視する職員に捕まって連れ戻され、見せしめに拷問された。IMG_1086.jpg

 野母半島の住民は、端島や高島から労働者たちが命懸けで逃げ出してくるのを見て、「監獄島」と呼んだ。IMG_1461.jpg

 端島炭鉱から後に長崎市内の造船所へと移された朝鮮人労働者によると、同じ三菱の経営ながら造船所では危険な仕事もなく十分な食事が与えられ、端島炭鉱とは「天と地の差」であったという。  wikipediaよりIMG_3187.jpg

 世界遺産としての「軍艦島」は長崎市の端島炭坑など幕末から明治にかけての重工業の発展を示すと書かれています。IMG_3646.jpg

 当然のことながら現在の軍艦島からその後の歴史を消し去ることはできない。

 ロバーツ氏は80年12月~81年11月、施設整備のチーフとして普天間飛行場に勤務。81年夏、滑走路の端近くの土中で見つかった100本以上のドラム缶の撤去を上司に命じられた。一部は破損して液体が流れ出たが、折からの台風で現場が水浸しになる中で、部下の米兵や沖縄の基地従業員と一緒に首まで水につかって排水作業にあたった。IMG_3759.jpg

 その後、沖縄から米本国の基地へ戻ったが、ぜんそくや心臓疾患、前立腺がんなどを次々に発症。退役後の09年、「基地内で何らかの化学物質にふれたのが原因だ」と訴え、退役軍人省に健康被害の補償を求めた。IMG_4818.jpg

 「あなたは典型的な枯れ葉剤由来の症状だ」。3年前、診察を受けた同省の医師に、ロバーツ氏は告げられたという。   ( 朝日新聞)


 
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