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山本五十六と東電の無責任な振る舞いに怒る!新年を迎え、改めて皆様のご健康を願います。 [戦争と環境破壊]

 東電現場関係者が高圧給水系の手順書を一度も読んでいなかったというニュースに驚きました。アメリカの原子炉事故の教訓から弁の開閉系統の異常が判明し改良がなされていましたが、日本の原子力発電関係者は無視。
 改良をせずに事故に至ったと書かれています。緊急時の作動手順も認知していなかったそうです。
 高圧給水機が正常に動作していれば、水素爆発も、メルトダウン、メルトスルーも起こらなかったと書かれています。
 この無責任さは許されるものではないはずです。

 山本五十六も同じように許すことのできない軍人です。
 国民の命を預かる者としての責任感に欠けた愚か者、戦争を勝つか、負けるかで判断する現代のゲームおたくとなんら変わらない異常者でしょう。0887.jpg
 
 太平洋戦争開戦後、真珠湾攻撃やマレー沖海戦など、戦争初期における快進撃により、山本は英雄として扱われる。米太平洋艦隊の排除や南方資源確保を行う第一段作戦が完了した後、その後の展望(第二段階作戦~戦争終結)について、山本を含め日本海軍は確固たる方針を持っていなかった。艦隊決戦(機動部隊決戦)で勝利すれば、講和の機会が訪れる以上の考えはなかったとされる。
 1942年(昭和17年)4月18日、米軍はドーリットル空襲により日本本土初空襲に成功、昭和天皇のいる東京を爆撃されたことで山本は動揺する。
 1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦において、日本軍は南雲機動部隊の主力空母4隻と重巡洋艦1隻、航空機285機を喪失する大敗北を喫する。かつて山本が艦長を勤めた空母「赤城」も沈没、周囲の期待も厚かった山口多聞少将も戦死した。山本は完成したばかりの戦艦「大和」に座乗して機動部隊後方を航海し、米軍とは全く交戦しなかった。戦艦群(特に低速の伊勢型戦艦・扶桑型戦艦)が作戦に加わったことについて、山本は事前の作戦会議で「情だよ」と答えている。
この海戦における山本と連合艦隊司令部の作戦準備と指導には、後述のように批判が多い。
 日本へ帰還後の作戦研究会では「屍に鞭打つ必要なし」として、大敗北の責任の追及や敗因研究が行われることはなかった。
 海軍中央は敗戦の情報を隠蔽、昭和天皇すら当初は本当の損害を知らなかったとされる。
 7月12日、山本以下連合艦隊司令部参謀達(宇垣は参加せず)は料亭で宴会を行い、着任したばかりの土肥一夫少佐によれば一同何事もなかったかのように陽気だったという。
 8月、米軍はガダルカナル島に来襲して日本軍の飛行場を占領、ガダルカナル島の戦いがはじまる。
8月17日、「大和」に座乗する山本は『あと百日の間に小生の余命は全部すりへらす覚悟に御座候』の覚悟で日本を出撃した。8月28日、前線拠点トラック島に進出し、連合艦隊司令部にて作戦立案と指導を行う。
 山本は「大和」の甲板から最前線へ向う駆逐艦や潜水艦を見送り、乗組員達は山本の姿に感激したという。
だが、厳しい戦いの中でトラック泊地から動かない「大和」や「武蔵」は「大和ホテル」「武蔵屋御殿」と揶揄されるようになる。
 山本と共に航空主兵を主張した大西瀧治郎少将も、この頃になると「大和」から動かない山本を痛烈に批判するようになっていた。
 新潟県出身兵で構成された第二師団新発田歩兵第十六連隊がガダルカナル島で全滅した時には『十六連隊の事は残念至極、連隊長大隊長の補充に行く者郷里より来信あり。会稽の恥を雪げと鞭撻し置きたるが恐らく生還はなし得まい。自分もガ島が奪還できなければ郷里へ帰れぬ。宣敷頼む』と宇垣纏に笑いながら語った。
 2月12日、山本は「大和」から姉妹艦「武蔵」に連合艦隊旗艦を変更し、将兵は「武蔵と山本がいれば戦争に勝てる」と信じていた。0901.jpg

 戦争を理解していない山本五十六の愚かさが良くわかります。地獄へ落ちて当たり前の軍人です

命を賭して戦争回避に努めるのが軍人。山本五十六に正義はない。

 
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